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「表現者の覚悟」

「表現者の覚悟」

 別に今の時代に限った事ではないが、真の表現者・芸術家は基本的に狭義の意味での「私」は消し去っている。

 徹底的な自己考察、自己分析の極点において自他の境界は意識的に消し去り、そこから再度自己表現というものをする。
それが時代に受け入れられようが、拒否されようが微動だにしない確固たる確信がある、からである。

 今日、私が知る限りの真摯な表現者は、実に質素に生活しつつ活動している。結果的にそのような生活にならざるを得ぬ、からである。

 私が、この人物は可能性を秘めている。今の時代に欠かせぬ基盤を備えて生まれてきた、と。

 実名を出せば世間的には著名な彼らのプライド、プライバシーとやらに触れるし、くだらぬ不毛な中傷ともなりかねぬ。ましてや、そのような諍い、戦いには大して意味もない。彼らですら、自分の足場、立場を守る為には適度の安全地帯にいて、発言、表現する。

 衣食住を基盤とした世界観が基点となっている限りは、例えどれだけ「理想」を説き、歌い、表現しようが所詮はポーズでしかありえない。

 有体に言えば「覚悟の欠如」である。さらに言えば「人間不信」ともいえる。

 覚悟だけではすまぬのである。単なる最前提にすぎぬ。と、私がこのように言えば彼らは「世間を知らぬ青臭い考えだ」と思うであろう。

 だが、直に会うと、私には二度と会いたくない。何故か!? 自分自身の足場が危うくなると、勝手に思い込むのである。

 私は数千人の人物達と出会い、通り過ぎて行った。

 確かに歩くのは当人自身である。また、その歩き方、歩み、方法手段も違う。それはそれでいい。

 能力や資質の有無も大した問題ではない。要は誠実さ、真摯さ、砕けて言えば「真の思いやり」があるか、否か、である。

 これすら難しい、といえば、何と言えばいいのだろう。

 言うは易く行なうは難し、である。

 この状況は今後も続くのであろう。

 
 地道に一歩づつ、行きつ戻りつを懲りずに繰り返すしかない。

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