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「鬼神ライブ」渋谷アピア・加藤直次郎の追悼ライブ

*加藤直次郎への追悼詩 *ちょうのまい「鬼神ライブ」渋谷アピア 2008.5/15(1)(故加藤直次郎への追悼詩)

*加藤直次郎への追悼詩

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突然の訃報であった。

2008年4月1日の夜に電話で「主人が今朝亡くなりました」と。

私が加藤直次郎と出会ったのは、まだ銀座で画廊を開設して2年に満たぬ頃であった。
私は彼が画廊に入った瞬間に投げかけたセリフ「来るのが遅い!ずっと待っていた」と。

彼は当時まだ26歳であったが、既にフラメンコ界ではカンテとして大舞台を数多くこなしていた。

出遭い以後、私の活動と連動して様々なイヴェントを企画プロデュースしたり、異端的存在や生き難い人物を数多く紹介した。

私の妻と同じ「急性大動脈乖離」であった。

私よりも生きる予定のはずが48歳で肉体から去った。
私は彼の死に対して、哀しみよりもある種の名状し難い怒りが揺らめいている。

昨夜彼の自宅近くのS病院の霊安室に会いに行った。
眠っているような穏やかな表情であった。
私は彼に「肉体が無いということは今まで以上に働いてもらうからね」と。
奥様は私と彼との出会い・因縁を理解していたので、私が通常の会話ではなくとも了解されていた。

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「金色の桜花舞ふ道にて」(直次郎への追悼詩・2008年4月5日)

告別式終了後、嘆き悼む多くの弔問者を背後に直次郎を乗せた
霊柩車に先導され焼場に向かう。

道半ばにて桜並木通過。

花びらの絨毯が地上から舞い上がる。
桜花が風に散る。

陽光を浴び舞ふ金色の桜花ひとひらひとひら
その光景や浄土空間より降りそそぐが如し

さて焼かれたる真白き骨骨等。
その中に見事なる座禅する姿形の喉仏。

骨在りし者吐き出したる最後の言葉

俺にはやる事が山ほどある、残っている。今死ぬわけにはいかぬ。

彼の声が空間に染み入り響く。

寺に帰路途中の桜並木様相異変せる。

緋色に舞ふ桜花ありぬ 
ほのくらきよよにちりまひただよひもゆるよとあによよに




☆☆加藤直次郎氏との出会いは運命的なものであった。当時二十六歳の彼はフラメンコのカンテとして大舞台を数多く踏み、日本人離れした声をしていた。私が彼と最初に合った時に「待っていたよ、来るのが遅かったな」と。彼は「遅くなりました」と答えた。彼も私と同じような想いで様々なジャンルの人物達とのライブをプロデュースしていた。彼とは連携して音楽家と舞踏家等々、様々なイヴェントを開催した。(自叙伝より抜粋)

私と加藤直次郎





私と直次郎・個展会場にて

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このいろは詩「ちょうのまい}は私がひらがなを用いて一番最初に創ったものです。

私の決意表明が込められています。

「ちょうのまい」

ちりぬるをはひさしくて

ひたひたむきにちょうのまい

ふいのやみふゆ

めのいぶきのみにたゆるひとひとのなみ

くるいむかしにようまいの

ただひたむきのちょうのまい

やみのうたげにたえぬるをいきしちに

これひたひたむきのちょうのまい

みえたりよめたりのたまわず

ひとひとびとにまいくるへ

しられずみられずうろたえず

ひたひたむきにちょうのまい

1983年12月16日

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*昨夜は「渋谷アピア」にて、加藤直次郎の追悼ライブであった。
鬼神ライブにも一度だがゲストで出演してくれた。

最も親しい友人達が来場してくれた。
故に内容自体はあまり愉快ではないライブだったと想う。

身をよじるように声を発した為か、歩く時に全身が軋みをあげていた。
筋肉痛は三日後であろう。
我ながら軟弱な肉体である。

帰宅にはKさんが車で送ってくれたのでありがたかった。

いつもは帰宅時に自分の舞台を見聞きするのだが、横になったら直ぐに眠りに落ちた。

*直次郎への追悼詩 *ちょうのまい

「鬼神ライブ」渋谷アピア 2008.5/15(1)(故加藤直次郎への追悼ライブ)
https://www.youtube.com/watch?v=e7456YgD7T4&t=33s

*「鬼神ライブ」渋谷アピア 2008.5/15
詩、声、梅崎幸吉:Poetry, voice: Kokichi Umezaki.
ドラム、パーカッション :石塚俊明: Drum, percussion:Toshiaki Ishiduka
フルート、ソプラノサックス:狩俣道夫:Flute, soprano saxophone.Karimata Michio 
映像構成:伊東哲男:Video production.Ito Tetuo.

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