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「精神の糧」(3)

「精神の糧」(3)

―孤独なる魂― (ロ)

 自分自身の足場を支えていた世界観の基盤が完全に崩壊すると世界そのものの様相が未知なる世界へと一変する。

 謂わば、通常の正気と狂気の区別、或いは自他との意識の境界すら消滅してしまうのである。このような意識状態に於いて通常の実生活の中で己自身を保持するのは容易ではない。個人の自我が耐え難い極現状況に長時間置かれれば誰にでも起き得る事である。その底無しのような恐怖に対し、自我は本能的ともいえる自己保存本能により辛うじてバランスを保っているにすぎない。

 近代以降、このような個人の魂の受難劇が試練として襲ってきた。鋭敏で透徹した心理考察がおのれの足場をおのれ自身で解体するという状況となったのである。

 詩人哲学者ニーチェや詩人のアルチュウル・ランボオはその代表的な人物である。無論、このような状況は徐々に準備されてはいたが未だ観念上の事件で、創作上の人ではシエイクスピアの描いたハムレットの如き人物として存在していた。

 A・アラン・ポオは既に先駆的な人物であり、自己解体・自我崩壊の果てに孤独に至り、おのれ自身を現実との関係を見いだし得ぬ存在の物語やそのプロセスの作品を生み出した。「アッシャー家の崩壊」は自我の崩壊劇である。
 そのA・ポオの世界観に衝撃を受けたボードレールが西洋に紹介した。

 この状況は時代と人類の自我が熟した結果生じた東洋精神と西洋精神の融合とも言える。所謂、無常観が観念上の事件となり個人の魂から身体的感受性、感覚的知覚まで降りてきたのである。
 この心的状態は個人が現実に肉体・個体を所有している以上、耐え難い苦痛と苦悩となる。

 私は私であって私ではない、それでも私は私として現実に存在するという矛盾に心身の乖離が生じる。この状態をそのまま語るには通常の言葉では難しい。ゆえに声ならぬ声、悲鳴とも絶叫とも言い難き音調が言語表現へと顕される。この孤独の裡に苦悶する魂の状況を自らの魂と共感した後世の人物達はそれを受け継ぐ形で語る。

 だが、語るべき足場は既に消失し、相対化されている。これが一切の価値転換という蜃気楼の如き危うき足場である。

 このような孤独の裡に難破した魂の存在を小林秀雄は弁護、橋渡しする決意を持って敢えて評論家となった。ただこの意識状態の魂の有様は通常の言語では表現し難いものなのである。

 これと並行して自然科学もまた加速的に発達してきた。数値化し得ぬものは存在せぬと。相反する世界観が共存しつつ絡み合っている。この状況も今日も大して変化してはいない。或いは、この両方の混合物は混ざり合いつつ個々人の魂にしっかと根付き浸食している。

 荘子や孫悟空もどきが至るところに普通に生活しているのである。

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