もっと頼りあって生きていきたい

少し怒りの感情も含めながらあえて文字にしてみようと思う。

自分のこころのなかだけで抱えるには重すぎるものを、なんとか自分の体内に押し込んで生きているひとがとっても多いんじゃないかと思う。

他者への怒りや悲しみをそんな感情を持ってはいけないと蓋をしたり、何とかなっている現状から逃げたり、環境を変えることが一人の力では怖くて、抱いている感情をごまかしたり。
自分が犯した間違いがあるからと、ひとに悩みを打ち明けられなかったり。

こう書きながらも、いろんなひとの顔や、自分自身の感情が思い出される。
そんなの辛いよ。自分のこころだけじゃ、行動だけじゃどう対処しようとしても苦しい。

なんだか、ひとの、自分の感情ってとってもないがしろにされていないか?と思うのだ。
いわゆる、負の感情と呼ばれる、怒りとか悲しみ、苦しみ、妬み、恥、罪の意識など。
※なぜ”負の感情”(negative feeling)と呼ばれているんだろう。調べてみたい。

それらを抱かない方がいいと、自己暗示をかけられていたような気がする。
人をねたまない方がいい、人に怒らない方がいいとか。

そういう生き方を強制させられてきたのは、負の感情が介在すると争いがおきたり、シャカイにとって不都合だからなのではないかと思う。

争いごとを収めるのは大変だ。
人間関係でのいさかいは生産性を低下させる。
他者に負の感情を吐露すると、相手に迷惑をかけたり、相手との関係性を壊してしまったりする。
自分の立場が弱くなってしまう。それはシャカイでの自分の価値を下げる。

ひとのミスや境遇は、シャカイは自己責任だの一言で片づけてしまうのに。

一方、いわゆるポジティブな感情はシャカイにいいように使われている気がする。
他者への好意を”推し活”として資本主義的に消化する、楽しめるようにエンターテインメント事業(カジノなど)が増える、インターネットでたくさんパーソナライズされた広告を流して好きを商売にする、など。

ひとびとの”負の感情”をブラックボックスに押し込めて、ポジティブな感情で埋め尽くそうとさせているのはシャカイなんじゃないかと思う。
これを個人の問題で片づけるのはおかしいと、私は思う。

もっと弱くていいし、ひとを頼りあっていいと思うのだ。

こんなことを書いている私だが、ひとを頼れるひとに対して「私はもっと頑張っているのに、あのひとはそんな些細なことで頼れてうらやましい」なんて妬むことがある。
それは、私自身がひとに頼りたいという感情の裏返しだ。
妬みといういわゆる”負の感情”は自分にとってとっても大切なシグナル。
私はひとに頼りたい、でも怖い。
そういう自分の欲求に気づかせてもらった妬みという感情は、全くこころから引かれるべきものではないと思う。

世の中には、たくさん、私がケアされてほしいと願うひとびとがいる。
わたし自身も、わたしの周りにも、そのまた周りにも、さらに周りにも。

だが、それと同時に、安全にひとびとがケアをされる場がまだまだ足りないとも思う。そういう場を探すのが難しいのが現状だ。
それは、ケアしている側のひとびとにもケアが足りていないというのも一因だと思う。

安全にケアされたいという欲求をシャカイに発信する。
シャカイといっても、たとえば身近な友人に悩みを吐露するでもいい。
自分自身が、自分のケアをすることも欲求を満たすことだ。
世の中にケアが足りないと気づいたことをひととシェアすることも、発信の一つ。

また、自分自身がケアされると感じる場を探す。
はたまた自分でそういう場をつくってみる。

自分のなかだけでどうにかできることは少ない。
それを知って絶望して倒れこんだときに、なんとか世の中のひとびとが手を天に掲げる余力がありますように。
余力に頼らず、みんなが頼って頼られるシャカイになりますように。
そう願いながら、自分にできることを続けたいと思う。

追記:読み返して、負の感情も含めてシャカイに利用されている点を言及できてないなと思ったのでここに書いておこう。