見出し画像

#3 塩と下駄 /Of salt and wooden clogs

初回の自己紹介のあと、2回目に少し脱線しましたが、ここからは予定していたとおり、私が三里塚で取材を始めるまでに遭遇したいくつかの出来事や記憶を記していきます。

最初は「塩と下駄」。なんだか民俗学のような響きですね。これらは、瀬戸内海に面した「松永」という私の故郷でかつて生産されていた二大産品です。

松永はもともと、沼隈半島と島々に囲まれた静かな湾に面した浜辺の村でした。江戸時代初期以降、潮の満ち引きの高低差を利用した入浜式塩田が開発され、製塩業の興隆によって町が生まれました。そこで生産された塩は北前船で北国へ運ばれ、戻しの船では製塩用の燃料となる材木がもたらされました。また、明治時代以降の約1世紀では、その安価な材木を原料とした下駄の製造が盛んになりました。そのため、松永は「塩と下駄の町」として知られるようになりました。

こうした郷土の成り立ちは、小学校の授業や、地元の祭りなどを通して子どもたちに伝えられます。また、駅前には、塩田開発の指導者の像や、塩田風景のモニュメントがあり、駅近くには「日本はきもの博物館」(現在は「松永はきもの資料館(あしあとスクエア)」)があり、「ゲタリンピック」という町おこしイベントも年に一度行われるなど、地元にいると「塩と下駄」に接する機会が少なくありません。

私自身、幼い頃から、目の前の海で塩が作られたのは自然なことだと思っていましたし、家の周りにはたしかに下駄工場のようなものがあったことを記憶しています。両産業によって活気づいた時代を知っているわけではありませんが、口伝レベルではそれらの存在を認識しており、心のどこかで誇らしくさえ思っていました。

さて、そんな「塩と下駄」に対する私の認識は、高校生の頃から変化し始めました。変化と言っても、認識が真逆に向いたわけではなく、それまでと同じ方向に深まっていったと言うほうが正確でしょう。

その変化には、二つのきっかけがありました。一つは、父親が幼い頃(昭和30年代後半)、塩田で自転車に乗ったり、野球をして怒られたりしたと、本人の口から聞いたことでした。当時の塩田はもう生産を停止していたけれども、「実際にそこに塩田があった」という、一番身近な人による証言でした。

下の写真は、戦後に米軍機が空撮した町の様子(上)と、同じ場所の現在(下)。見えにくいですが、黒くて小さな点々のある区域が塩田です。私の実家は塩田地帯のすぐ北側の住宅地にあり、塩田まで本当に近かったことが分かります。この辺りで父は遊んどったんじゃろうなぁ、と。

1947年米軍空撮。粒々のところが塩田(国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより)
同じあたりの現在の様子(Google Mapより)

父の話は、本人にとっては他愛のない思い出話でしたが、私にとっては塩田の生な記憶に初めて触れた衝撃的な出来事でした。見たことのなかった郷土の風景が、父の言葉によってとても愛おしく感じられるようになりました。そして、なぜ塩田がなくなってしまったのかを考えるようになりました。

さて、認識の変化をもたらした、もう一つのきっかけ。それは、いわばマクロな歴史認識でした。

一般論として、日本が昭和30年代以降に高度経済成長期を迎え、世界でもアメリカに次ぐ経済大国に成長していったという歴史に対し、それほど国土も人口も大きくないこの国で、なぜそれほどの経済成長が可能だったのかを考えるようになりました。これも高校生の頃です。考えながら、いろいろ読書をしました。外国の文化にも興味を持ち、日本と各国を比較し、各国に伝統的な料理や芸能があり、長年培われてきた独自の価値観があることを知りました。

そんなある日、あれっと思ったのです。松永で塩田が姿を消した頃、日本の高度経済成長が加速した。これはどういうことか。当時の日本で何が起こっていたのか。そんな疑問の種が、この頃、私の頭に植え込まれたのです。その後、故郷を離れて大学に進学し、社会に出て働くようになっても、ずっと頭の片隅にありました。ただし、疑問の種は眠ったままで、大学での勉強や、就職した会社での業務を、疑うことなくこなしていたと言えます。

それから数年の眠りを経て、幸か不幸か、種は発芽しました。発芽したきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災とその後の原発事故による社会変化でした。今回は東日本大震災については触れませんが、必然的にあとから戻ってくることになります。

というわけで、うまく説明できたか分かりませんが、こうして「塩と下駄」という郷土の歴史を通じて、私の中に疑問の種が植え込まれたわけです。それは、さらにいくつかの出来事を経て、ついに羊の花を咲かせます。もちろん、当時は羊との出会いなど想像もしませんでしたが。(次回に続く)

「塩と下駄」によって植え込まれた種から、やがて羊の花が咲いた(Vegetable lamb (Lee, 1887), PD, Wikimedia Commons)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?