大きな栗の木の下で
umidas耕作所のutakoです。
今日、保育園の子どもたちとお散歩していると、「おおきなくりのきのしたで〜。」と1人が歌い始めました。ここのところ、子どもたちのおかげで「チューリップ」や「ちょうちょ」、「とんぼのめがね」などの童謡に出会い直しています。
その歌詞の素朴さと美しさに、思わず口ずさんでしまうメロディに、はっとして心洗われています。
昨年の秋、「うたこさんにみせたい場所があるのよ。」と友人が連れていってくれた場所が、兵庫県 篠山市の山の中にあるなんとも大きな栗の木でした。
この大きな栗の木と暮らすお家の方のご厚意で大きな栗の木の下で栗拾いをさせていただきました。棲んでる方もこれまた物語にあふれたステキな方で胸がキュン。
葉っぱを大きく大きく広げた栗の木の下は、まるで立派なドームのようで、その中は緑の木漏れ日につつまれる柔らかな光で満ちていました。時折風に葉っぱがゆれて、何層にも重なる色鮮やかなみどりの葉っぱの隙間からキラキラと光がこぼれ、その都度、葉の重なりが変化し空の色を変えていきます。
私はこの時、「大きな栗の木の下で」をこころの中で思わずうたいました。
「大きな栗の木の下で
あなたとわたし
なかよくあそびましょ
大きな栗の木の下で」
ほんとにこの木の下ではケンカはうまれないな。なかよくなるわ、なんて穏やかで気持ちのよい。それにしても、なんて美しい〜、これは時を忘れてずっと木の下であそんでいたくなるようななんて。ふわぁ〜と気持ちが新芽のようにふくらんでいきます。
あー、なんだかとても平和だな。
気づいたら声に出してごきげんに歌っていました。
平和を一言で語ることは難しいのかもしれません。だけど、平和な気持ちというのをもし体現するのなら、私にとってこの時の気持ちがそのものかもしれません。
なんだか圧倒的な存在感で、「気が失せる」くらいの威力で、ふんわりそう思う。この時、実は、何日か前に私は久しぶりに火山が噴火するほどある出来事があり腹の底から怒っていたのです。こんなに噴火するのは3年に1回くらいの大噴火で、かなりモヤモヤしてどうこの噴火をおさめたらよいか思案中でした。でも、そんな気が、そうその気が失せていくくらい不思議な穏やかさにつつまれていったのです。
今でもあの瞬間的な和解策がなんだか魔法みたいに思えるほど、気持ちが変換されました。ありがたかった〜。
大きな栗の木の下で。この曲を自然と歌ってしまう喜びに心がみたされました。そして、その後、ケロッと楽しく時間を過ごせたんです。
それから私は童謡を子どもたちと歌う時、すごくイメージを大切にするようになりました。
この栗の木の出会いから、なんとなく歌うことをできるだけしないようになったのです。だって、童謡の歌詞にはどこか真実味があると思えたので。あの時の栗の木と栗の木の下にいた自分のこころを思い浮かべながら歌うそんな感じで、いろんな曲にもイメージを物語をちゃんとのせて歌うようになりました。だから、今、歌うという表現にとても興味があります。
ことばにイメージをのせる、たったそれだけのことなのですが、随分と歌うことを通しての子どもたちとの交流が変わってきました!
それに、ひょっとしたら、童謡こそ、日常の風景なのかもしれないという発見があります。そこにある日常の風景をきりとるやわらかなまなざしのエッセンス。
その情景をイメージする、イメージできない時はその光景に会いにいくのが1番。知らない童謡にたくさん出会えるので、またまた発見がありそうです〜。旅のよう。
今日、子どもたちが歌ってた「とんぼのめがね」もステキなんだ。
目の前の景色と歌が思わずリンクする子どもたちの感性に改めて感心しながら、今日のお池の散歩でトンボが飛んでいるのを見つめていました。季節は巡っています。刻一刻と。歌も流れます。刻一刻と。こころも動いています。刻一刻と。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?