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雑雑と想像と巡る旅

umidas耕作所のutakoです。

島をひとつこえてたどりつく島。
兵庫県 淡路島のさらなる南に浮かぶ島、沼島へ
umidasの仲間たちと訪ねてきました。

島は特別なお祭り 沼島八幡神社 春祭りの日を迎え、たくさんの人の熱気にあふれ、だんじり唄と太鼓で島全体がゆれているような感覚になり、お祭りのフィナーレはだんじり唄と鼓動で肌がゆれるほどの熱量と振動。

このお祭りの熱はどこからくるのか?
空に立ち昇るような熱気の渦をみつめながら思いを馳せてしまいました。

島の人たちの想いが1年に一度、1箇所に集結する、祭に参加する誇らしさ、受け継いでいく凛々しさ。たくさんの人が自分たちの島にかえる再会の日でもあるようです。それはきっと島への郷土愛のすがた。

そして私が気になるのは沼島の岩肌をはじめとするなんだか神秘的な島のたたずまい。船からみえた海に浮かぶ沼島の岩肌が遠くからくっきり浮かぶのがとにかく印象的でした。なんとその出で立ちは上空からみると勾玉のかたちをしているそうです。

沼島の島に向かう船が進む際にうまれるしぶきの白さと群青色の海のきらめきが眩しく、到着すると海は深緑に黄金の光が時折はいり、ゆらゆらとゆれていました。色の境界線がまざっていくようでとても自然なグラデーション。
そんな海の色の変化は島の岩の色を変化させていくかのように感じました。

連れていってもらった空に向けて矛先のように伸び行くゆるぎない"上立神岩"。

その周辺の岩が太陽の光をうけて輝き、無数のさんかくの波が踊り続け、まざり続けています。

沼島の岩は、岩自体がきらめいている、なんとも不思議な風合いの岩です。

島の民家の石垣は沼島のそんな岩からうまれた石を積み重ねた絶妙なバランスで生活道につかわれています。

岩がほぐれてうまれてきた石たち。かたいけどやわらかさを感じる不思議な風合いに感じます。

石垣の道を歩きながら、積み重なる時間と積み重ねる時間、そして、とおりすぎる時の風景をおもいました。

特別なお祭りを迎えているからでしょうか。なんだか、神の文化と人の文化がまぜこぜになって島の風土をつくりあげてるような沼島の土地柄を個人的には感じてしまいました。さすがに神話の島。宇宙の物語を読み解くような祭。いろんな熱がまざるまざる。だんじり唄にのせて。神輿にのせて。こんなに長編の物語があふれる祭があるんだなって、本のページをめくるように瞬きしてじっくり空気を吸い込んでいました。

島の方と少しお話できた時、「むかしはね〜。」と「むかしっからね〜。」が交互に出てくる感じでふりかえっておられました。

時間と共に変化すること。
時間と共に成熟すること。

ここでも、まざる・まざる。
いろんな気持ちもおりまざる風景。

帰り道、umidasの仲間との話の中で「雑味のないこと」ということばを知りました。なぜだか気になってしまい、今日は「雑」ということばから今回の旅を巡りふりかえっていました。

「雑」ということばからの連想で、今回の旅の島の時間からメッセージをまたひとつ時間差でうけとれた気がしています。

雑雑(ぞうぞう・ざふざふ)
いろいろであること。またそのさま。さまざま。

「雑」ということばにはいろんなものをまぜるという意味もあるそうです。そして交互おこなうことという意味もあるそうです。

自然に起きること全て。日々おこるいろんなこと、そういうのひっくるめてまぜる。巡り巡らせまぜる。

そしてその中でまざる感じは、どこか沼島の海みたいに色の境界線をつくらず変化していく、新しいなにかをうみだす大きな流れや渦の循環の中にあるのだと、こまかいことがすーっと気にならなくなり、こころのざわざわがいつのまにかきえていました。

日本の国生み神話の舞台といわれる沼島の"上立神岩"。妙に最後にたどりついた「雑」ということばからの連想。「雑雑(ぞうぞう)」という二文字からの想像(インスピレーション)が、かみさまたちの国生みの創造の物語と結びつくとは!

いろいろであること。さまざま。自分のひらめきをもとにあれこれ空想し思い巡らすこともとても創造的な行為。

まぜるというエネルギーも、まざるというエネルギーも熱量はすさまじく、そして清々しい。

今回の沼島旅は、からっとしていて元気になる空気にみちていて、私にとって特別な時間でした。

そして、いつも朗らかな心地よい空気をまとうumidasのみんなと共に訪ねることができて嬉しかったです。ありがとう♥️

今、ふりかえると、沼島はumidasでuzu×uzuな場所でしたね!umidas耕作所の仲間たちでまた巡る時が訪れることを楽しみにしています。




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