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【古事記と赤子のプロローグ】

umidas耕作所のutakoです。

突然ですが!日本最古の歴史書『古事記』の世界観がこんなにぶっとんでいて面白いとは知りませんでした。ずっと腹から笑いがこみあげてくるこの感じはなにかに似ている。なんて圧倒的で爽快な世界観。

「今のutakoさん、なんか心に響くかも。」と、お声かけいただき、3月に「宝塚寺小屋」という会で能楽師 安田登さんからきいた古事記にまつわるお話をきいてきました。「はて、古事記?」となんの予備知識もないままきかせていただくお話から、私がまず思い出したのは、小さなこどもたちと過ごす時間の感触でした。

保育園で0.1.2歳のこどもたちの活動づくりにアーティストの立ち位置から保育士の先生たちと共に日常的にかかわりをもたせてもらう、そんな今のお仕事は気づけば3年目を迎えました。こどもたちと過ごす時間の中で、最近、この日にうかがった古事記のお話をよく思い出します。

日常が表現の場であることを、うまれながらにして人がもつ本来の創造性を、こどもたちには日々気づかされ、自身のあり様が問われ磨かれてゆくような気持ちになる一方で、私自身の表現の観点からふりかえると、こどもたちとのコミュニケーション、特に赤ちゃんとのコミュニケーションは、ことばとこころと身体性について深くみつめなおす機会となっています。

こどもたちのこころの揺れ動きは、繊細かつダイナミック! 毎日驚かされます。

喜怒哀楽の波がこんなにも激しくどこにもつまりがなく流れてるような人たちを目の前にすると、なんだかただただ感動します。

最近、ほぼ一日中こどもたちの生活の場に滞在する中でこどもたちの放つエネルギーには圧倒されっぱなし。特に「泣く」という行為がこんなにも日常的となる姿を目の当たりにして衝撃的に価値の転換が私の中で目まぐるしく起こり続けています。

なんとも力強い感情のリリース。なんとも力強い表現。

その交流たるや、どこかセッション的であり、おだやかだけど躍動的。あり様がためされるし、鍛えられます。その現場に立会いその表現を追いかけたり、向き合っていると相当エネルギーをこちらもつかうらしく毎日爆睡!!ただ、とても面白い!

表現について色々思い巡らし気付かされます。

人間の欲求。
こころの状態に素直にしたがうこと。
純粋な表現は感情の起伏にとても素直、こころとからだが連動するように生きる姿の威力ったら半端ない。


こどもたちの姿を一日ずーっとみていると、涙にはいろんな涙があり、時に、そうした欲求も超えたなんというか、それがなんの涙かなんて理由はもしかしたらどうでもよくて、ただただ泣きたい気持ちだから泣いてる、そんな風に思えてしかたなくなる時がたまにあります。

なにをやっても立ち往生してしまう、そんな時はこちらがあれこれ考えて手立てするよりただその状態として側にいて見守りうけいれると意外な感じで爆発してすーっとひいていくことが時としてあります。忍耐と根気と体力が必要ですが(笑)、超自然現象として取り扱うことでなにかどこか身体的に響きあえる気持ちになることがあるのです。

感情とは情を感じるとかきます。

古事記は言語(文字)をもつ以前の時代の世界観が描かれた歴史書だと話されてました。

そして、言語(文字)を手にしたことで「心」がうまれたと語られていました。

おそらく、ここで取り扱われてる「心」とは言語で後づけに意味解釈する「感情」の意味あいで扱われており、つまりそれは情を意識的に感じる行為ということ。それまではただ心がその状態にあるということらしく、ただその状態にあるただそれだけという捉え方ができるのでは?とのこと。

古事記を読み解くことは今これからの時代の生き方へのたくさんのエッセンスがあるように感じました。

たしかに。
素直に泣けることはすごい。
はて、私は、涙の理由をいつから考えてしまうようになったんだろう?

こどもたちの姿から私もそんな風に感じてしまうことがあります。

そんな時に思い出してしまうのが、先日知れた古事記にえがかれるスサノオの号泣の場面です。

古事記の一節より。

「速須佐之男の命、命(よ)させし、國を知らさずて、八拳須(やつかひげ)の心(むね)の前(さき)に至るまで、啼(な)きいさちき。その泣く状(さま)は、青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き乾(ほ)しき。ここをもちて惡しき神の音なひは。狹蝿なす皆滿ち、萬の物の妖(わざわ)ひは悉に發(おこ)りき。」

私なりの咀嚼になりますが、ばくっとニュアンスでお伝えすると、スサノオというカミサマは黄泉の国に旅立った会えない母親のことをおもい、そのかなしみで、まかされた領域を治める仕事そっちのけで、成人してもあごひげが胸元にとどくほどになっても泣きわめき、そのエネルギーはすさまじく、青山を枯らし、川や海を干上がらせるほど!そして世界は悪神がざわめく声(ハエの羽音がなりひびくごとく)と災いにあふれかえっていたそーな。

「八拳須(やつかひげ)の心(むね)の前(さき)に至るまで」の表現につい笑ってしまいました。

八拳須(やつかひげ)とは、あごから拳(拳)8個分くらいちょうど丹田の位置ぐらいまで髭が伸びるまで泣き続けるという、相当な時間の長さは相当なエネルギー量を物語っている…!果たして、自分はそんなに泣いたことがあるのだろうか?そしてその泣きが周囲に与えてる影響ったら半端ない!

超自然児な姿そのもの。なんというか。なんというか。超自己中心!

でも、何振り構わずそこまで自分の心の状態そのままを表現しきれるって凄いなと思いました。そしてなんだかその素直すぎる行動に笑えてきました。能楽師の安田登さんの博学でユーモアあふれるざっくばらんな軽快なトークからも笑いがさらに巻きおこります。笑いすぎてお腹いたくなっちゃうほど愉快爽快!

私が日々出会うこどもたちもそれに近い表現の世界に生きてる人たち。彼らの世界の中心はまぎれもなく自分自身で、この世界を動かしている。少し違うのは、彼らはこころを出し切ることで受けとめてくれる世界に安心感を抱き、そして、その後、再びこの世界に自ら関わりを持ち、自分の手で、からだいっぱいこころいっぱい動かして世界をつくっていくこと。こどもたちは出し切ることで自分を知り、他者を知り、気持ちを切り替えし、世界を吸収すると同時に世界をうみだしてもいるようにも私には思えます。

そして、私は時々、キュートな赤ちゃんが、赤さんや赤さまのように凛々しき姿があることを感覚的に肌で感じています。なんだか圧倒的な生命力が表現の塊としてみえるからです。

古事記のカミサマたちのように赤ちゃんの表現の起源もまた素直なこころの状態からの動きからうまれているように思えて仕方ありません。

そういう存在を目の前にすると、自分のこころの曇を鏡をふくようにふきとることができたり、また知識や経験に基づく理性的なたちふるまいとは離れたところの感性が磨かれる感じがしています。私の場合、理性と感性、双方の振れ幅は表現の即興性を高めてくれているようで、それは、私にとってどこか「野性」的に状況を瞬間的に察知して瞬間的に読み解いて動くような感覚に繋がっていて、なんというかどこか「狩人的」と呼べる状態にあるのかもしれないなと最近思うのです。

特に赤ちゃんとコミュニケーションを続けていると、本能的な状態をおもいだし、色々磨かれるものだなぁとしみじみ。微細に動き続ける、繊細かつ大胆な、とんがっていくけどやわらかい、振れ幅があり、全体として、なんだかふっくらしていくそんな感じ。世界をまるごとのみこむような全てが表現の源へとつながっていく状態。結構、自分の日常にもその即興性の感覚はたしかにいきている。

現に、ちいさなこどもたちと向き合うことからの体験が予備知識をほとんど持ち合わせていない古事記を読み解く時にまさかその野性が活かされるとは思いませんでしたー。やっぱりこどもたちはすごい表現者たちだと実感。それはまさに、私にとって、世界のはじまりをみるような物語にあふれる日常。

世界のプロローグを垣間見るような時間です。

あ〜。この世界にこどもたちがいてほんとによかった!そんな風に改めて感じる「古事記」との出会いでした。超自然な表現の源がすぐそばにある凄み。

古事記、また違うエピソードも読んでみたいなと思います。

さぁ、今日もこどもたちの表現の世界へ。

いってきまーす。





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