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向こう側の世界の表現

umidas耕作所のutakoです。この夏、私はフラガール として3つの舞台を体験しました。
フラをはじめるきっかけは、今、フラを学んでいる先生が志すフラへの想いに共感したことと、なにより、その美しさ(美感)にはっと心動かされたからです。

憧れの世界へ

私にとって踊ることは憧れそのものであり、キラキラ眩しい雲の上のような世界。ずっとカラダが固くて運動が苦手で…踊ることへの興味とはうらはら縁遠い世界をさまよっているというか、猫背、貧血、グランディングの弱さに10年くらいかけて向き合い少しずつ踊るその時が来るのに備えてきた日々と、なかなか自分と共鳴する踊りの姿に出会えなかったから。いやー。ほんとにとにかくほんとに地道でしたし、今、学んでいるフラの先生との出会いは幸運な出来事でした。タイミングがそろっての出会い。そして、この夏、憧れのフラガール のみなさんと同じ空気を吸い、同じ空の下で踊ることができたことが、本当に嬉しくて感無量でした。

猫背と貧血はストレッチや生活習慣の見直しでだいぶ自力で改善されましたが、グランディングは、長年ひとりではなかなか思うようにいかず試行錯誤していました。

グランディングに対する諸説や見解は色々あるかと思いますが、私の場合は"地に足をつける"身体のあり方、重力との付き合い方のような感触がひとつ大きな柱としてあります。

地に足をつける踊り

フラを学び始めて、1番驚いたのは、カラダの重心が低いところで保持されていく感覚です。こんなに低いんだ!!とかなり驚きました。

フラを自分の生活に取り入れはじめて約1年。

ふくらはぎがこの期間でめきめき発達し筋肉がつきはじめました。あしのうらが最近になって少しやわらかさを取り戻しふくよかに地面を察知し始めています。肩のちからが一段とぬけて少しデコルテがすっきりしました。呼吸は以前より深く落ちついてきて胸がひらいています。など、身体の変化を観察しながら感じています。

フラは腰をふるというイメージがあったのですが、実はそうではなくて!足の裏をつかった重心移動で連動して腰が動くということをはじめて知りました。

つまり全ての動きは途切れることなく続いていて、動きはまぁるく繋がっていくことになります。グランディングは最近もっぱら日常に安定感とはなにかを問いかけ続けてくれています。まだまだグランディングは安定とまではいかない様です。(まぁ、気長にじっくりと。)

連動、そして、自然体

カラダの動かし方に集中して練習を重ねていくとこれまた少しずつ意識の方が変わっていきました。少しずつほぐれていくようなそれでいて自分の軸をしっかり確認して結びつけるような不思議な感覚です。20代の頃、自分の声と向き合った5年くらいの期間と同じように、ひとつひとつ自分の癖(習慣)を新しいニュートラルな状態に置き換えしていく作業に似ています。


カラダはいつも先に気づいて変化しはじめ、後を追うように意識が変わりはじめ、いつも少し遅れて意識とカラダが結びつき、やがて知らないうちに意識とカラダが連動してその変容が定着していくことを「声」と向き合う体験の中で体感しているので焦りは全くありませんが、まさかこんなに踊ることに自分が向き合うとは思っていませんでした。今、自分が覚悟を決めて、なにか変わろうとしている、表現してみたいと思えるなにかがその向こう側にあるような気がして、自分でも驚くくらい静かに燃えて地道に取り組んでいこうと。ここから。いまから。はじめてみようと。

これは自分にとってかなり新しい感覚の表現です。なぜなら、明確な目的がないまま惹かれてしまうという現象だからです。

向こう側の世界がどんな世界かわからないのに、その川の先を渡ろうとしている、そんな気持ちです。

時を超えたギフト

踊ることへのカラダの状態は本当にまだまだですが、地道に取り組んでみようとどこか気持ち的に地に足がついてきた時に、ミラクルな出来事、その瞬間はやってきました!

それは、そんな私のひそかな決意に対するお祝いだったのかもしれません。(うれしい〜!!)

先日、この夏、3つめの舞台で、古典フラをある神社のお祭りで神殿を目の前に踊らせていただく機会に恵まれました。

古典フラ「カヴィカ 」、ハワイ王国 第7代国王をたたえる踊りです。この踊りを舞台で踊るのは2回め。

フラは物語を踊る"うた"そのもの。

踊りの振り付けで、「稲妻が東の空を走り、ハワイを明るく照らす」という意味合いの部分があります。

先生がてのひらで太陽の光のボールを天上で受け取るようにとよくレッスンで踊りにインスピレーションを与えてくださいました。

舞台で踊っている時に、ちょうどその振り付けの部分で空から突然ギフトが届きました。なんと、私の目の前で、空から太陽が突然姿を現し、私のてのひらのポーズの中にぴたっとそのひかりがおさまったんです。ありえないくらいぴったりと!

あまりの綺麗さに私は驚き、そのひかりをみつめました。時がとまるような美しさでした。

私はかれこれ5分くらい動きが止まってしまった!とその時は思ってしまうくらいのゆったりとした雄大な時の流れとして感じれました。
そして、あれ?今、私はなにをしていたっけ?みたいな我を忘れる出来事でした。(後から、動画をみると数秒の出来事だったみたいですが。)

さらに驚いたのは、その後、無心に踊り続けていた自分自身に対してです。いつもは次はこれ、その次はこうと意識してからカラダを動かしていたものですから。勝手に動く自分のカラダに後から動画をみて驚きました。

というのは、私はこの舞台の間、てのひらにおさまった太陽に心うばわれてしまっていたからです!さらに、一箇所振り付けを間違えてしまいました。ありえないくらいの間違いで、何故かひとりだけ反対側を向いて踊ってしまったんです。

それは花が大地から咲く動きでカヴィカ の父である国王をたたえる部分です。

後から、しまった!と群舞である踊りの美感を損なってしまったことに、意識の上で共に踊るみんなに深く申し訳なく思い反省したのですが、でも、あの瞬間、太陽に向かって踊りたいという直感的な判断をしてしまったカラダがありました。

その間違いも、体感的にはすごく長い時間、太陽と向き合って踊り続けていたように感じましたが、動画では一瞬の出来事で、その後、カラダが自然に修正してくれていました。(少し安心しました。)

今回の舞台はほろ苦い体験ともなりました。群舞というところで調和をみだす結果になってしまったからです。

ただ、私にとって、カラダが中心に動く体験ができた貴重な舞台でした。そして、太陽のひかりは私にこんなインスピレーションを与えてくれました。

太陽からのインスピレーション

"踊るということは自然の一部となること。
自然の一部となることはあらゆる自然と繋がること。そこに宇宙がある。"ということ。

宇宙?これも解釈が色々あると思いますが、"森羅万象"の中で今を生きるってことかなと数日たった今腑に落ちてそう思えます。

フラの舞台の後、先生や仲間たちに「すみません!間違えてしまいました。」と素直な気持ちを伝えると返ってきた言葉も意外なものでした。これもまた貴重な体験です。

「うたちゃんがそう踊りたかったんだね。フラはそういう動物的なところあると思うから大丈夫だよ。」

そのあたたかさに心打たれると同時に、自分の舞台での体験が見透かされてるような安心感を覚えました。

フラはやっぱりすごいなって。理屈じゃないなにか。言葉じゃないなにかが息づいている。自分から湧いてくる感情がいったいなんなのかわけがわからなくなってしまう体験でもありました。

その日の夜に、あー、共に踊るってそういうことなんだなと感覚的につかめてきました。これは共に踊らなければ、私も理解できなかったことです。地道に練習を共にしてきた仲間だからこそ、その瞬間の出来事を自然体として受け入れられる。私が逆の立場だとしても素直にそう思える自信がありました。

だって私からみたら雲の上みたいなフラガールのみなさんたち、みーんな、すごくフラが好きで、地道に練習重ね、それぞれに真剣なことを知っているので。

物語の連動と踊り

群舞に対するイメージも少し変わりました。
同じ振り付けを踊っているけれど、それぞれ一人一人に物語があり、一人一人に物語があるけど全体としての物語として連動していて自然体な表現となり、みてくださる方やその場に物語として伝わっているからです。それは空間的な空気感を表現しているようにも思えます。

たしかにそれは宇宙。

実際、みんなそれぞれにこの舞台(踊り)を通して得たものが違いました。でも、その違いよりも、それぞれに気づきを得れた喜びにフォーカスをあてて認め合う、認め合えることが大切な気がしました。それは、私にとって1人でなにかを表現する時とも、子どもたちと表現する時とも違った世界観が広がっているようにも思えました。

フラは物語を踊る"うた"そのもの。

向こう側の表現の世界。憧れていた踊りの世界に等身大に地に足をつけることを決めた夏の終わり。フラを踊ることを通してこれから変わっていく日常へのまなざしと私の中から湧き出るインスピレーションと表現。

そして、それは、これからどう向こう側に向かうかはまだ誰も知らない物語のはじまり。

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