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虹のりぼんを手にとって

umidas耕作所のutakoです。

こないだ畑仕事をしていてふと空を見上げると、とてもキレイで写真をパチリ。そこにスパイラル状の虹が偶然にもうっつていて嬉しくなりました。なんだかびっくり箱をあけた時のような驚き!リボン体操みたいな虹のスパイラル!

虹のスパイラルから時間を連想し、今日は自分自身について綴ってみようと思います。記憶をたどりながらその時の心模様をことばにしていくので、長くなりますから、「1人の人間の成長記録」として、気がむいた方はよかったら時間のある時にお付き合いください。そして、今「umidasの一歩」を迎えてる方たちのなにか息ぬきになれば嬉しいです。

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umidasプロローグ...

思いおこせば、私の今は10歳の頃の浮かんだ「暮らしは物語」ということばのイメージを始点に動いています。一人ひとりの暮らし(人生)の物語がイキイキとそれぞれに等身大に輝くことで全体がはずんでいくと。私はずっと暮らしを弾ませる発想としての「遊び」に注目してきました。

その後、大学で社会福祉「social welfare」を学び、そこでも、生活にこそ遊びが必要だと直感、今の私のまなざしの原石を見つけることになります。

当時、このみつけた原石を磨くような面白いと感じる仕事が世の中に流通していないことを目の当たりにし、これはどうしたものか思案した記憶があります。

さらに当時は今のように人と話すことや繋がることを面白がれず、自ら世界をちいさく限定し自分の可能性を閉じて殻をつくってひっそり生息していたので選択肢が激狭!

ちょうど大学の時にアートとこどもたちの現場に出会え心が揺れ動かされたことをきっかけに、自分の中に次々と浮かんでくるイメージがもし具現化できたらたしかに面白いな、どうしたら現実に実現できるか、自分なりに考えてみようと前向きに取り組みはじめた頃でもありました。それまでは浮かんでくるイメージを自分でどう表現すればよいかわからず眠らせていましたが、こどもたちの思うがままに表現する姿に触発されたのです。自分はこどもたちからなにか吸収できるんじゃないかなと興味が湧きました。

人生の羅針盤を設定し直す...

さてさてなにからとりくんでいけばよいものか、考えてもわからないので浮上することにひとつひとつ応答するシンプルな構造でとりあえず挑戦してみることにしました。なので、体あたり!綱渡り!私をインスパイアしてくれたこどもたちのそばで始めてみることにしました。

「私はこれがしたいです。」とか、「将来の夢を叶えるためにがんばります。」とかは憧れるひとこと。最近、「なにを目指してるんですか?」とよく聞かれるけど、今でも正直わからずほほえみを返します。

ただ、かつての腰の重かった自分を思い出す度にこの間の12年の一巡りの月日は実によく動いたなと、自分の直感と根性と即興性には結構感心して惚れてたりして板についてきたほほえみの存在感はあれこれ説明するよりどうやら意味深げのようです(笑)

舵取りの方向は、自分が面白いかどうか。
というのは、私の場合、特に感動してときめいた時にイメージが降ってくることが多いので自分の想定外の威力を発揮していく道は面白アンテナ(直感)に基づいて動くこと、特に当時はほんとそれしかエネルギー源がなかったのです。さらにもしイメージが浮かんだとして、その浮かんだイメージを表現する表現力を当時は持ち備えているように思えなくて、その瞬間がきた時に体力的にも表現できる状態を自分なりに磨いておくことは必須だなと意気込んでの0地点からのスタート。

地図をもたない航海が始まる...

大学卒業後、いくつかの仕事を点々としながら、たどり着いたのが「こどものための博物館」。ここで8年間、乳幼児期のこどもたちの遊びの環境づくりのお仕事に企画プランナー、ミュージアムエデュケーターとして携われたことは幸運でした。私は水を得た魚のように自分のイメージ(妄想)をかたちにする(具現化する)面白さに目覚めていきます。有り難いことに、ちいさなこどもたちの遊びの世界と私の持ち前の空想の世界はとても相性がよく、 もはや彼らは私の世界観の1番の理解者というか、多くの一期一会のこどもたちとの出会いの連続の中で即興性が磨かれました。遊びの光景を通していろんな愉快な大人たちと知り合う共存する方法も同時に探っていける絶好の環境。この仕事のはじめの3年くらいはとにかく自分が楽しいことを無我夢中に取り組んでたくさんのことをかたちにし、さまざまなことを経験できました。

かけぬける時間の中で次第に私の中でなにかが変わっていきます。面白さが膨らんでしばらくは加速しどんどん世界が広がり、最後の方は収束していきました。まるでそれは宇宙の星の一生みたいに。

冒険の先にみえる景色...

ここでの仕事は多岐にわたっていて、自分が進む限り進みますが、とまるとそこで終わるそんな法則の中でかけはしるような緊張感もありました。今振り返ると、頭の中はいくつもの複線の過去・現在・今が瞬間的に切り替わるようなパラレルワールドのような感覚で常にいくつものことをうみだし続けるスピード感のある世界で誰かの毎日に非日常の魔法をかけるそれがこの期間の私の日常だったのです。

いろんな人たちとの共同創造から、私の始点「暮らしは物語」にまたしても立ち返ることになります。みんなそれぞれに人生の物語(生き方のスタンス)があるので意思疎通を図り意識を共有することが私にとって、なかなか難しく試行錯誤しました。

物語の多様性。文脈の違い。
そんな環境下に身をおくと、次第に相手から物語を引き出すことに興味が向かっていきます。

なんでそう思うんだろう?どうしたら相手に伝わるだろうか?知らない・違うということから始めるコミュニケーションと関わり。

ことばを鍛える。ことばを磨く。

目の前に次々と現われる人たちとその都度いい流れを創造していくことに集中してたら育まれた実践コミュニケーション。赤ちゃんに対しても大人に対しても私の場合は基本関わるスタンスはおんなじです。コミュニケーションのとりかたは個性や年代で多様性に富んでいくのですが。話がそれちゃうのでこの話はまた別の機会に。この期間に培うことができたことは全て今の私の土壌となりとても感謝しています。

外に向けて表現し続ける自分のエネルギーは次第に空中分解をしはじめ、自分の中味がふと空洞のように感じてしまうそんな気持ちになることがふえていきます。

いちどたちどまって0地点にもどろう。

凪の時間とこころの波と...

大切な慣れ親しんだ環境を巣立つこと。自分を信頼してくれるたくさんの方と共に耕してきた想いを注いできた場所を手放す。それは周囲を驚かせる決断でした。最後の1年は後に引き継くことを意識しながら大切な人たちとの限られた時間をより丁寧にかけぬけました。

巣立つ時に周囲はきっと大きな夢があるのだろうと前向きに温かく私のことを見送ってくれ、私から打ち上がる花火を期待してくれました。

でも、私は一度たちどまりたかった。1人の等身大の自分にたちかえりたかった。花火のかわりにほほえみを返すことしかできませんでした。
あまりに聞かれるのでだんだんそういう世界と距離を置きはじめ、なにか自分の知らない世界で、自分のことを知らない世界でひっそり一から自分をためしてみたくなりました。それから、どんどん、なにかを外側へ発信するうみだすこととは逆の自分の内側うみだすエネルギーに向かっていました。

さらに、この頃、重なるように家族の体調の変化などいろんな出来事が、自分の羅針盤の見直しに拍車をかけてきました。急激に自分の自由に扱える時間が激減していくことからの戸惑いや不安定感になかなかその設定はできずになんとかバランスを図る毎日、慣れ親しんだ場所でのやり方や発想から一度離れることも、長年の癖を直すようでなかなか大変で、その後、ギリギリまで色んなことをミニマムにし、3年間ぐらい実質的には宙ぶらりんのふわふわと浮遊する時間を過ごしていまして…。ようやく、最近ふと、かろやかに着地してきました。新たな0地点に。

限られた時間の中でひとつひとつのことにじっくり丁寧に関わることもまた濃い体験であること。母の手伝いではじめた畑仕事もそのひとつ。保育園でのこどもたちとの日常的な時間もそのひとつ。

ゆっくりじっくりは実はそれはそれでこまやかでめまぐるしくにぎやか。自分の日常の物語に焦点を取り戻すことがようやくできてきました。しかも今回はバージョンアップして羅針盤の磁石が自分に内蔵された感覚です。

旅の更新、再び浮上...

不器用なほどに、これまでをふりかえるのはとても時間がかかりました。新たな時間の感覚へとシフトするのにも時間がかかりました。でもこの棚卸し期間は自分の物語に実感を与えてくれています。今の私の表現コンセプト「実際に体験することからの実感をともなう感覚や発想」を遊んでいくことが自分の人生をつくっていく、『遊びで創る暮らしの発想「あそビルド(あそび×セルフビルド)」』の核(コア)へつながっていきます。

そして今、誰かの本来の力を引き出すために自分の表現を使う「教育」にも関心が向かっています。

なので現在、「表現」「教育」のまなざしから自分の実感をベースに「ちいさなこどもたちの遊び環境提案」を実践者の立ち位置から自分の「おしごと」として活動できることは大変嬉しいことです。無我夢中に試行錯誤追求し続けてきた点と点が結ばれていく感覚があり、またそれが誰かに歓迎され、思いのほか役立ち喜ばれることに幸せを感じます。そして不思議なことに、またかつての自分の耕してきた道と再会し、自然にまた繋がり巡りあうことになります。

ここ数年の浮遊期間で掴み始めている「表現」は、呼吸ぐらいごく自然に身体化した発想や態度のようなもの。ふりかえってみると、純粋にひらめく自分のイメージを自由自在に表現してみたかったかつての0地点からのこれまでの日々の出会いの中で磨いてきた表現力は筋トレに少し似ています。

人の繋がりは一度離れてもまた合流することもあるのだと。そして、お互いに成長しての再会はまたなにか新しい創造の予感に満ちています。

ここからいまから、新機能の羅針盤をそろそろ再設定してみようかな、そんな気持ちになってきました。

この間、鍛えてきた筋力で、虹のりぼんを手にとって、なにかとなにかを結んでいくようなことにもつかっていけたらとも。時々、くるくるまわして遊びながら踊ってみようとも。色々遊べそうな虹のりぼん。

たしかに周囲の環境はこれからも変わっていき、その都度向き合う課題もたくさんうまれるけど。等身大拠点の羅針盤を自分におくことには変わりない。いろいろあるけど、きっと大丈夫。

自分の直感的なイメージをこれからも大切に、私も私自身の「アソビ(空白)」の時間をつくって遊んでみたいなと力がぬけてきました。

こないだ偶然みつけた空の虹のスパイラル。そう。こんな感じがいいななんて、空からのインスピレーションに、またあれこれ妄想しています。

回想後記...

今回は自分の人生の物語をumidasことのまなざしからふりかえり綴ってみました。

umidasにはいろんな姿がある。虹みたいにいろんな色。人によっても様々だし、自分の中でも様々で変化していくから面白いと私は実感してます。

自分のその時の直感に従って動くことが、地道だけど気づいたら実感を伴う自分のumidasにつながってきたこの道のりが私にぴったりくる道だったのだとしみじみふりかえれました。

そしてたぶんこれから色々自分からまたumidasが浮上していく、そんな予感に満ちて今はワクワクしますー。

umidas? umidas!

ここから、いまから。
はじめてまいりましょう。


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