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これでいいのだ

umidas耕作所の衣笠です。
お待たせしました。久しぶりの投稿です。
ん?
待っていなかった?
でも、これでいいのだ。

「これでいいのだ。」
この言葉の持つ、寛容性と未来性。
こんなに人をしあわせにする愛に満ちた言葉があるだろうか。
今の状況、状態を包み込むように受け入れて、未来へ向けて一歩を踏み出すための背中を押す言葉。
すばらしいじゃないか。
すばらしすぎる言葉。

この言葉の一大ブームを起こした功労者は、何と言っても天才バカボンだろう。
あらためて、バカボンの天才ぶりに驚かざるを得ない。
この「これでいいのだ。」は、バカボン自身の言葉ではなく、バカボンのパパの言葉であるのは、みなさんもよくご存知ことと思う。
つまり天才バカボンは、パパの天才的言葉を耳にしながら成長していくバカボンが、いずれ「これでいいのだ。」の言葉を自分のものにしていく天才となっていくに違いないという物語なのである。
これは、ある意味、教育を均一化、システム化しすぎて、個々の主体的を育てきれていない日本の教育の問題点に鋭くメスを入れ、人が成長するとはどういうことなのかを示した社会派の作品でもあると感じるのは、僕だけだろうか。バカボンのパパは、バカボン自身が自分の言葉として、「これでいいのだ。」を発するのを、鼻毛を抜きながら待ち続けているのである。その徹底した待ちの姿勢にも、「これでいいのだ。」を感じさせる。

生きているといろんなことがあるのは当然である。
いいことも悪いこともあって人生と言ってしまえばその通りだが、なかなか悪いことに対しては昇華しきれず悩み、苦しむ人が多いのも事実かと思う。
そんな時にこの「これでいいのだ。」の言葉に出会えると、人は救われる。
が、この言葉の出会い方が難しい。
実は、この言葉は、人から発せられる言葉でなく、自分の内側から湧き出てくるところに価値があるという点で、なかなか難易度の高い言葉なのである。
さらに考えていくと・・・「これでいいのだ。」と言葉にできる状態であるならば、すでに自分自身の中ではある程度の心の整理ができていることにもなる。
ん?じゃあ、「これでいいのだ。」の言葉そのものには、何の力もなく、単に自身が納得できた状態を外に対して発信する表現行為でしかないのではないか・・・
あれれ?こう考えていくとかなり頭が混乱してくる。
そもそも、僕は、「これでいいのだ。」について、コラムを書きはじめたが・・・
もしかして、本質的な着眼点として、かなり致命的な誤りをおかしているのかもしれないと感じはじめている。

無意味なコラム・・・
これを読みながら、そうつぶやく読者の声が聞こえてきそうだ。
しまった、しまった。
ここまで書いてしまってどうしたらよいものか。
いっそのこと、タイトルを変更して、

『「これでいいのだ。」の言葉がいつでも発することができるくらし方トレーニング』


とか、逆に

『「これではよくないのでは。」という切り返し的発想上達法』
とか

新しいコラムを書きはじめて、誤魔化すのもアリかと考えたが、

正直に言うが・・・
それは・・・

邪魔くさい!!

では、こんな僕に残された道は・・・

そう・・・

「これでいいのだ。」

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