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連れ合いの目印【エッセイ】

 小学生の頃から白髪があった。

 抜くと増えるといわれているが、特に抜かなくても白髪は少しずつ増えていった。二十代のはじめ、私はコツコツとひとりで詞を書くことを趣味にしていたが、言葉数を揃えて作品にするという作業は毛髪の色素幹細胞に過大なストレスを与えたようで、その頃から急速に白髪が激増した。晩年のマリー・アントワネットはこんな気持ちだったのだろうかと鏡を見るたびに思った。

 新規で通い始めた理容室で、白髪をカラーで染めることを勧められたのもその頃だった。白髪だけをブルーにしたり、オレンジにしたりといくつか試してみたが、やがて飽きてしまった。

 それでも、結婚をするまでは普通に白髪染めをしていたが、白髪の割合が黒髪を凌駕したのを自覚してからは、染めることをしなくなった。ある意味、この瞬間から私は非常に楽になったのだ。

 黒髪でいた方が若々しく見えるのは言うまでもない。妻は、一気に老け込んだように見えると言って、最初の頃は私が白髪染めをやめたことに不満を漏らしていた。けれども、そのうち慣れてきたのか白髪を許容するようになった。どうやら利点があることに気付いたらしいのだ。売り場面積の広い大型店舗やショッピングモールなどではぐれたとき、そこがどんなに人混みでも、すぐに私を発見できるというのである。何となく察しは付いたが、一応、妻に「どうやって見つけるの?」と訊いてみた。

「頭の白い人を探す」

 思った通りの答えだった。

◇◇

 先日、上空に今年一番の寒気が到来して、平地に雪が降った。クローゼットから、今シーズン初めての出番となるフード付きの防寒ジャケットを引っ張り出し、袖を通した。

 その格好で外出し、いつも行く書店に立ち寄った。平台に並べられた文芸書の新刊コーナーで、気になる本を物色していたら、後ろからすっと近寄って私の横にぴったりと並び、親しげに話しかけてくる女性がいた。一瞬、知り合いかと思って顔を向けてみたが、まったく知らない人だった。女性はこのとき、平積みされた新刊本の表紙に目を落としていて、隣で戸惑う私の表情には気付いていないようだった。

 女性は赤紫色のナイロンコートを着ていて、私よりも歳が上のように感じた。平台の周りには二人の他に誰もいないので、女性が話しかけている相手はやはり自分ということになる。私は今の状況に一つの推測を当て嵌めていた。女性は私の横に並んだとき、第一声でこう言ったのだ。

「こたつの上に手袋を忘れて来ちゃった。さっき駐車場で車をバックさせているときに思い出したのよね……」

 本屋で偶然、知人に出会ったとしても、最初にかける言葉にしては内容が唐突過ぎる。おそらくだが、今、横にいる女性は、私のことを、自分の身内の誰かと勘違いしているのではないだろうか。

 しかし、あまりにも話し方が自然で、私もつい彼女の言葉に合わせて「へー」とか「ふーん」とか曖昧に頷いてしまっていた。何となく人違いだということを言いそびれてしまい、本を物色するふりをしながら、少しずつ棚に沿って横歩きをし、距離を取った。心の中で(早く勘違いに気付いてくれ……)と祈りながら。

 海外文学の新刊が並ぶ棚の前で私が何冊か手に取っていると、女性は身を翻して反対側にある文房具のコーナーに向かった。さすがに気付いたのだろう。彼女にとっては赤面するような事態だったかも知れないが、私も即座に反応できなかった。こういうことがあったとあとでお互いが笑い話にできるならそれでいい。そう思って、少しニヤニヤしながら新刊の文庫が平積みされた棚の方に進んだ。しかし、私が文庫のページをめくっていると、さっきの女性が本棚を見て回りながら、またゆっくりと私の元に近付いてきたのだ。

 えっ、まだ気付いていなかったの? と思った。

 再び、ぴたりと並んで親しげに話しかけてくる女性を横に、私は焦り始めた。違いますよ、人違いですよ、とどのタイミングで言えばいいのだろう。彼女は明らかに身内の誰かと勘違いをして、視線は本棚の背表紙に目を向けながらも、私に向かって話しているのだ。

「あれ? ねえ、この間見た、誰だっけ、なんとか……かなえ、っていう人の本、ここにあるかしら? なんとか……かなえ。たしか『山女日記』とか、そういう……」

 女性は本を探しているようだった。本好きの人であれば理解してくれると思うのだが、誰かが本の題名や作家の名前を思い出せないで困っているとき、自分がそれを知っていたらすぐにでも教えてあげたくなるという強い衝動。このときの私に込み上げてきたのは、まさにその衝動だった。女性は作家の名前を失念しているようだが、下の名前が「かなえ」なら、それは「みなとかなえ」だろう。デビュー作が映画にもなった人気のミステリー作家だ。私は作品を読んでいないが名前は知っていたので、女性に教えてあげたくなった。だが、すんでのところでそれをこらえた。

 もしも、この場面で、私が「湊かなえさん、ではないですか?」などと発言したら、その瞬間、女性は今まで知らない人に向かって話かけていたことに気付くだろう。場合によっては声を上げて驚いてしまうかも知れない。それは静かな店内で女性に恥をかかせることにもなりかねない迂闊な行為だ。私は喉まで出かかっていた作家の名前をぐっと飲み込んだ。

 もう自分でも、どうするのが正解なのかわからなくなっていた。すでに人違いであることを申告する機会は逸している。今の私にできるのは、さりげなく新刊文庫の棚から移動して、女性から気付かれないように距離を取ることだけだった。新書コーナーに身を寄せて独りになったとき、私が最初にとった行動は、店内のどこかにいるであろう、あの女性と共にやって来た本当の連れを見つけることだった。間違えるくらいだから、私と似ているのだろう。何を目印に探せばいいか、すでに自分の中で答えは出ていた。そう、頭の白い人を探すのだ!

 ぐるりと店内を見回したらすぐに見つかった。釣り雑誌のコーナーに、頭髪の白さといい、背格好といい、自分に酷似している男性が一人いたのだ。頭の白い人を探すと言っていた妻の言葉が、図らずもこんな形で証明されることになるとは。

 あとはあの女性が、本来の連れ合いを見つけるまで、私が近接しないように注意すればいいだけだ。

 私はその男性と女性に近づかないように、離れた場所にある棚へ移動した。ときどき様子を窺いながら、不自然に見えないように本を取り出しては装丁を眺め、中身を吟味するなどしていた。そっと棚から首を出して二人の位置を確認したり、見つかりそうになって身を縮めたりした。本屋に来て、自分は何をやっているのだろうと思った。

 しばらくして、あの二人が仲良く向き合って会話をしているのが見えた。やはり、私の思った通りだったのだ。

 あの女性は自分の勘違いに気付いただろうか。こればかりは会話が聞こえているわけではないので知ることはできなかった。何となくだが、気付いていないような気がした。ともあれ、これでようやく私はおかしな緊張から解放されたのだった。

 二人は仲良し夫婦に思えたが、どうしてあの女性は、自分の亭主と私を間違えたのだろうか。男性も私と同じように、フード付きの防寒ジャケットを着ていたが、彼のジャケットは茶とベージュとオレンジのパッチワークで構成された洒落たデザインのものだった。一方、私のはグレー一色のシンプルなもので、普通は見間違えるはずないのだが……。

 その夜、妻に本屋での一件を一通り話して聞かせたら、大ウケだった。

「よほど俺と似ていたんだと思う。でもなあ、顔は特に似てなかったぞ」

 私がそう言うと、妻は自信ありげな口調で断定した。

「その女の人、顔は見てないのよ。服も見てないの」
「じゃあ、何を……」
「決まってるじゃない」

 妻は私の白い頭部を見つめたあと、快活な声で笑った。




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