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長崎在住廃墟好きと少しだけ見てみる、佐世保の“ヤマ”のこと

こちらではご無沙汰しております、うみみちです。
Twitter(X)では元気にしてますので、そちらもよろしかったらご覧ください。大したことは呟いてませんけども。
さて、気がつけば年を越して2024年、そして3月の終わりになってました。全く記事を書かないまま数ヶ月ばかり時間が過ぎてしまいましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

さて、私が以前投稿したこちらの記事。

おかげさまで沢山の方から反応を頂いておりまして、初めて書いた記事がこれ程多くの方に反響をいただけるとは思っておらず、noteの影響力の大きさをこの身を以て感じた次第です。皆様、ありがとうございます。
佐世保の方では、現在でもコラボを続けている店舗もございますし、西肥バスではC2機関とのコラボ商品「アクリル万年カレンダー」がまだ販売中とのことなので、まだまだ佐世保の「艦これ」熱は熱いままです。ぜひ、佐世保に来る機会がありましたら、更なるコラボ継続を祈念してグッズを購入されてみてはいかがでしょうか?

と、前置きが長くなる前に、本題に移らせていただきたいと思います。


はじめに

佐世保の“ヤマ”

佐世保って聞くと、どんなイメージが出てくるでしょうか。
市内各地の米軍関連施設の姿を見たり、近年の「艦これ」ブームも手伝って、「やっぱり佐世保は軍港だよね」というイメージを持っている方も多いでしょうし、やっぱり佐世保バーガーやレモンステーキと行った洋風グルメも外せないでしょうか。まあ、要するに佐世保の大まかなイメージというのは、(第二次大戦後に発展した)欧米文化が色濃い九州の港町という、そんな感じではないかと思います。

そんな「海」のイメージが強い佐世保にも当然山もある訳です。
佐世保の山と言われると、ピンと来る方の大半は「あぁ、弓張岳のことね」「烏帽子岳には昔学校行事で行ったなぁ」と、市街地そばにある、展望台やレクリエーション施設等が整備された“山”を思い浮かべるかと思います。

また、平成の大合併では周辺の多くの自治体と合併を繰り返したこともあり、海沿いのみならず内陸部にも面積を広げて「山の町」としての要素が強まっています。ツツジの美しさで知られる「長串山(なぐしやま)」も、昔は北松浦郡鹿町町の山でしたが、今は佐世保市鹿町町の山です。

鹿町地区の長串山。九十九島の多島美にツツジの華やかさが彩りを添える。

しかし、私が今回書きたいのはそんな“山”の話では無く“ヤマ”の話です。山は山でも、石炭の取れた場所・・・・・・つまりは「炭鉱(ヤマ)」です。

皆様は、九州の炭鉱と言われると何を思い浮かべるでしょうか?
世界遺産になった「軍艦島」や「三池炭鉱」だったり、山本作兵衛の絵等で知られる「筑豊炭田」の炭鉱、はたまた2001年まで現役で採掘を続けた九州最後の炭鉱である「池島炭鉱」など、色々な声が聞こえてきそうですが、その中で佐世保やその周辺地域に点在した炭鉱群「北松炭田」を思い浮かべる方がどれだけいらっしゃるでしょう。
そもそも「佐世保に炭鉱なんてあったの?」と思う方が多いかもしれません。私だって高校生~大学生の頃になって、初めて佐世保に炭鉱があった事実を知ったわけで、生まれも育ちも長崎県な私ですら知らなかったのですから無理もないかと思います。
ですが、かつては佐世保をはじめとした北松地域各地には炭鉱が点在し、多くの石炭を産出した国内有数の産炭地として知られていました。北松地域の発展を支える原動力として、国内産業等を活性化させるエネルギーとして、この地の石炭は大いに活用され続けてきたのです。
しかし、それら炭鉱も時代の変化とともに姿を消していき、今ではその痕跡の多くが姿を消しています。それもあって、この北松炭田の歴史を知る方も減ってきていると言われています。

という訳で今回は「佐世保の“ヤマ”」に関して、簡単な解説を交えながら、炭鉱のあった痕跡を少しだけ・・・・・・何ヶ所か皆様へご紹介していこうかなと思います。
地域の歴史家でも専門家でも無い人間が書くわけで、知識や参考資料としては少々心許ない内容になるかもしれませんが、佐世保にもこんな場所があったんだと、1人でも多くの方が感じでいただけたら幸いです。
なお、画像の一部は数年前に撮影したものであり、後年の自然災害等で喪失している場合もあります。その点をご留意の上、ご覧いただけたらと思いますのでよろしくお願いいたします。

その前に・・・「北松炭田」を知る

まず、そもそも佐世保の“ヤマ”をはじめとした、長崎県北地域に点在した炭鉱群「北松炭田」とは何か、簡単にですが歴史を見ていきたいと思います。

佐世保周辺に開かれた炭鉱の歴史は古く、最古の記録は江戸時代に遡ります。江戸時代は平戸藩直轄地であり、同藩の経済を支える産業の1つとして採炭が行われてきたと言われています。
明治時代に入ると、石炭産業は国策の1つとして重要視されるようになり、近代的な設備が整えられた炭鉱が各地に整備されていきます。この北松地域の炭鉱も例に漏れず近代的な炭鉱が次々に勃興し、やがてはそれら炭鉱と積み出し港である臼ノ浦港や相浦港とを結ぶべく、鉄道路線が敷設されるに至ります。この鉄道路線こそが、現在の松浦鉄道のルーツになるのです。

松浦鉄道の佐々駅と車両基地。国鉄時代には機関区が置かれる等、旅客や貨物輸送の拠点だった。

最盛期には、現在の松浦鉄道の元となる松浦線の他、松浦線内の左石駅と柚木駅を結んでいた柚木線、同じく佐々駅と臼ノ浦駅を結んでいた臼ノ浦線や吉井駅と世知原駅を結んでいた世知原線といった、松浦線を幹とした一大路線網が形成され、これら鉄道路線は旅客輸送のみならず石炭等の貨物輸送で繁栄を極めていました。
最盛期とされる昭和30年代頃には、操業中の炭鉱は約100箇所、年間出炭量336万トン(全国5500万トン、長崎県600万トン、従業員総数18,000人(長崎県40,000人)にも上ったとされ、国内有数の産炭地としての勢いが盛んであったことが窺えます。(参考資料
北松炭田の炭鉱で産出される石炭は、主に「強粘結性」の性質を持っており、製鉄に必要なコークス製造に適したものであることから、造船等の重工業で繁栄した佐世保にとって欠かせないものでした。産出された石炭は、佐世保港の艦船や周辺の工場等へ供給されたほか、臼ノ浦港や相浦港から積み出されて各地へ運ばれる等、各地の発展を支え続けてきました。
しかしながら昭和30年代後半~40年代頃には、主なエネルギーが石炭から石油へと移り変わっていき、炭鉱も相次いで閉山。昭和48(1973)年の本ヶ浦炭鉱の閉山を最後に、北松炭田の歴史は幕を下ろすことになります。
炭鉱の閉山と時を同じくして、北松地域に広がっていた鉄道網も廃止が相次ぎ、今では松浦鉄道として再生された松浦線を残すのみ。廃止された線区の大半は、サイクリングロードや一般道路に形を変えて、地域住民の生活を支えています。

北松炭田も、他の炭田地域と同じような運命を辿っていました。
炭鉱の閉山、鉄道の廃止、地域住民の減少による過疎化の進行、・・・・・・かつての繁栄を示すものは、年月の経過の中で姿を消したり自然に還ったりしたものが多く、僅かに残る往時の記憶の残滓が、かろうじて私たちに往時を偲ばせます。「夏草や兵どもが夢の跡」とはよく言ったものです。

現在、中核市として九州有数の規模を誇る都市となった佐世保市。
軍港として明治期より発展し続けてきたからこその今がある訳ですが、その今を形成する過程において、これら北松炭田に存在した炭鉱たちが佐世保市の発展にどれ程寄与してきたことか、それは計り知れないほどの大きなものであることに違いないでしょう。
しかしながら現在、目を向けられる機会は殆ど無く、炭鉱の記憶は閉山後も残っていた痕跡が姿を消すと共に薄れていき、佐世保市に住んでいても知らない方が増えつつあるようです。
そのため、炭田を知る世代が高齢化で減りつつある中、これら北松炭田の歴史をどのように残していくべきかが懸念されているのです。

前置きが長くなってしまいましたが、本編に参りましょうか。

佐世保の“ヤマ”の今を見る

1.中心部:日鉄池野炭鉱跡

池野炭鉱跡の象徴である、ホッパー転用の集合住宅(2023年撮影)住宅としては今も現役の様子。
山林に残る巨大な竪坑櫓(2021年撮影)現地に行くと分かるが、かなりの大きさを誇る。
山中に残る境界標(2021年撮影)鶴嘴を交差させた社章が、如何にも鉱山らしい。

まず紹介するのは、旧日鉄池野炭鉱跡。場所は大体この辺り
今でこそ池野地区は佐世保市の市街地に程近い住宅地として団地や戸建て住宅が多く整備され、バスも1時間に1本ほど運行されているほか、川向かいの矢峰地区には商業施設の他に西肥バス(させぼバス)矢峰営業所もある等、比較的利便性の高い地域で人口も多いエリアとなっています。
とはいえ今では閑静な住宅地。保育所の子ども達の明るい声が聞こえる以外は、特に賑わうこともなく静かな時間が流れていますが、そんな池野地区もかつては炭鉱で繁栄した地域でした。
先述の通り、北松炭田で産出される石炭は強粘結性で工業用途に適していたことで、池野炭鉱も採掘開始以降、着実に出炭量を増加させていき、1930年には約99,000トンの産出を誇る(こちらの資料の5枚目より)ようになります。出炭が増えれば炭鉱の規模も拡大し、そして労働者の数も増えていくことになります。規模拡大と共に炭鉱関係者の住む住宅が多く整備されていった他、左石駅~柚木駅を結んでいた柚木線唯一の途中駅である「肥前池野駅」では、旅客輸送のみならず池野炭鉱で産出された石炭の輸送拠点として発展していったのでした(※肥前池野~柚木間には1936年まで高尾駅が存在していましたが、ここでは便宜上唯一の途中駅として紹介させていただきます)
しかしその池野炭鉱ですが、1940年、坑内での出水により作業員複数名が死亡する事故が発生しております。詳しい経緯は、下記の記事に記載がございましたので割愛させていただきます。

事故後も稼働を続けていたようですが、出炭量の減少や世相の変化によるものか、戦後に入って時期は不明ながら閉山に至っています。
なお、池野炭鉱そばを走っていた国鉄柚木線も、炭鉱の規模縮小や閉山によって貨物扱いの量が減少していくと、僅かな旅客を乗せたレールバス「キハ02形」が僅かな本数で往復するだけの寂しいローカル線へと零落。最終的には、豪雨災害で被災したまま復旧されること無く廃止されています。

閉山して長い年月が過ぎた池野炭鉱。
市街地に程近く、宅地開発も行われたエリアではありましたが、その立地環境からしたら十分なほどに大きな痕跡が残っているのが特徴的です。
まず1枚目画像のホッパー転用の集合住宅。建物断面を見るとその特徴的な構造がよく分かるかと思います。
ホッパーを何かしらの建物に転用する例は、佐世保市の隣町である佐々町の旧江里炭鉱等でも見られますが、池野の例は二階建ての集合住宅として再利用されているのが興味深い点です。トタンの様子等を見るに、集合住宅に転用されてから大分時間が経過しているものと思われますが、右端の部屋辺りの白い塗装が比較的綺麗な辺り、現在でも現役で住居として売り出されているようです。
次に2枚目の竪坑櫓。ホッパー転用住宅近く、大山祇神社のある山中にその威容を残しています。車道等も整備されてない山の中にありましたから、撤去が難しくほぼそのまま残されているものと思われます。状態はと言えば、閉山からの年月を考えると比較的状態は良い感じで、草木が上部で育っていたとはいえ、壁面や柱等を見ても目立った崩落は確認されませんでした。強固な作りと建っている環境がこの状態の良さを維持させてきたのではないかと思われます。
それにしても、煉瓦の壁面とは洒落た意匠です。偶然か必然か、理由はどうあれ無機質なものに細やかな彩りが添えられることで、閉山後の今となっては山林とうまく調和しているような印象を受けます。

その他、竪坑櫓から大山祇神社方面へ登って行けば、その道中には日鉄炭鉱時代の境界標が残っていたり、トンネル跡とも言われる空洞を塞いだ痕跡が見られるなど、住宅地直近の炭鉱跡とは思えない程に、現在でも様々な痕跡が見られます。
しかしながら、炭鉱閉山や宅地開発の影響で昔から池野地区に住んでいるという方も減ってきているとの話もあり、炭鉱で隆盛を極めていた頃の話を聞くことも難しくなりつつあるのが現状のようです。
宅地開発で新しい家々が建ち並ぶというのは、移住者もそれだけ入ってきているという証左であり、地域の新陳代謝による活性化という点が期待できることから、地域にとってメリットのある話であるのに相違ないでしょう。とはいえ、その裏で形となって残っていた地域の歴史が姿を消すのは惜しまれるところです。
まあ、歴史というのは常に何かしら上書き保存されて作られ出来上がったものなので、こういった古い歴史が新しい未来に置換され姿を消すという流れは、ある意味“自然の摂理”なのかもしれませんね・・・・・・。

2.世知原:松浦炭鉱(飯野炭鉱)跡

旧飯野炭鉱の繁栄ぶりを静かに語る、石造りの「旧松浦炭鉱事務所」(2024年撮影)
世知原町内に残るホッパー跡(2024年撮影)近隣の「かじか健康公園」はボタ山を公園に転用。
世知原の山中に残る、排気口とされる半円の構造物(2024年撮影)周辺は鳥の囀る長閑な場所だ。

佐世保市街より知見寺経由のバスで約50分の所にある世知原地区。
今では東彼杵町と並び、県下有数の茶の産地として『世知原茶』のブランドで取引される等、農業の盛んな地域であり、また知見寺越え、菰田越え、椋呂路峠と地域の周り三方を山で囲まれた、山間の静かな場所です。
そんな世知原地区も、かつては佐世保周辺では有数の産炭地として、石炭が盛んに出炭された地域でした。
1891年より本格的な採掘が進められた世知原の炭鉱は、特に民間企業「松浦炭鉱」(昭和恐慌時に解散し、後に別企業により飯野炭鉱となる)が中心となって採炭が活発化し、一時期は県内第2位の採炭量を誇る県内有数の炭鉱となる等、世知原にとって欠かせない存在となっていったのです。
しかし、世知原で隆盛を極めた炭鉱も、エネルギー革命等の世の中の変化とともに経営は悪化していき、合理化等によって炭鉱の規模は徐々に縮小。1970年3月10日、飯野炭鉱は閉山となり、明治期から続いた世知原の炭鉱の歴史はここで幕を閉じたのでした。

今年で閉山から54年。
先述のとおり、世知原は現在は農業盛んな静かな地域です。知らなければ炭鉱があったとは思えない程に、豊かな自然に囲まれて、朗らかな陽気に包まれて、鳥の囀りや小川のせせらぎが心地良い、長閑な山間の町となっています。そんな世知原の町中で、静かに炭鉱の歴史を語る史跡があります。それが上画像の「旧松浦炭鉱事務所」です。
長崎県北では希少な石造りの洋館建築として、長崎県指定の有形文化財として大切に管理されている同施設は、大正初年に建築されたもの。設計者は本田清次氏(所属:佐世保諸機械製作所)です。
佐世保市内でも、この世知原地区や近傍の吉井地区では、明治期以降になり近代化が進む中で石造りの橋が多数架けられた程に、質の良い石材に恵まれた場所でもあります。この旧松浦炭鉱事務所の洋館建築も、近傍で産出されたとされる砂岩が用いられており、その外壁の黄色さが印象的ですね。
山間の小さな町に残るこの立派な石造りの洋館は、かつての石炭産業の繁栄を物語る貴重な生き証人であり、現在この館内は「世知原炭鉱資料館」として無料で一般開放され、実際に坑内外で使用された道具等の資料が展示されるなど、佐世保周辺の炭鉱の歴史について学ぶことができます。
また、館外に出て川に架かる橋を渡った所にある広場の奥には、かつての坑口が現存しています。一時期観光用に開放されていたような雰囲気はありますが、残念ながら現在は入坑できません。老朽化や災害による落盤等の事故のリスクが大きい他、不法侵入で行ける限り奥へ奥へと足を踏み入れる内に坑内で遭難する危険だって0では無いですから、当然と言えば当然でしょうか。むしろ坑内に入れる炭鉱跡の方が珍しいですしね。

旧松浦炭鉱事務所から東へ10分ほど歩いて進むと「かじか健康公園」と書かれた小さな看板が立っています。このかじか健康公園は、炭鉱で産出されたボタ(石炭屑や土砂、岩石のこと。ズリとも呼ばれる)の積み重なったボタ山を転用した自然公園であり、園の入口にも「ボタ山活用」の旨の記載が書かれています。そんなかじか健康公園から、さらに東へ少し歩いた先にはホッパーが残存。すぐ側には住宅街があり、人々の生活のすぐ側にまで炭鉱が存在し、生活と密接していた様子が窺えます。
さらに世知原の中心部から山の中へ。自然の家へと向かう道中には、かつての炭鉱の排気口が残っています。中に入ることは出来ないものの、世知原における炭鉱の規模の大きさを感じさせる貴重な遺構であり、決して大きな遺構では無いとはいえど、世知原の歴史の生き証人として、今も静かにその姿形を留め続けているのです。

痕跡こそ少ないとはいえ、その数少ない痕跡の歴史的価値は高く、その内1箇所が歴史資料館として開放されている点は、この北松炭田の炭鉱跡としては珍しい活用法です。資料や案内も充実していると思いますし、炭鉱について学ぶには程良い環境だったという印象です。
ただ、資料館は5年ほど前に訪ねた際に、私以外の来館者がいなかったのが気になるところで・・・。来館者数の実績が如何ほどかは気になりますが、ただ実際に訪れたときの印象からすると、あまり多くないのではないかと思います。実際、この記事を読んでいる方の中にも「そんな場所があったのか」と思った方がいらっしゃるのかもしれません。
資料館という形で「歴史を残す」という施策は様々な分野で見られます。しかし、その「残した歴史」の存在に気づいてもらう、見つけてもらうにはどうしたら良いかという点で躓いている事例が多いと思います。そういった事例では、結局有効な手を打てないまま閉館に至るなんてことも珍しくありません。この世知原の炭鉱資料館も、そのような展開について、改めて考えさせられる事例であるように感じられるのです。

3.小佐々:日鉄矢岳炭鉱跡

矢岳炭鉱跡の代表的な遺構である巨大ホッパー(2024年撮影)その威容は一見の価値あり。
かつてのシックナー(洗炭設備)は、近隣の浄水場の設備として転用されている(2024年撮影)
山奥に残る変電所跡(2024年撮影)手前の旧炭鉱敷地にはソーラー発電所が設置されている。

佐世保市街より佐々での乗り換えを経て至る場所、小佐々地区。
本土最西端の神崎鼻があることで知られるこの地区にあるのが、この矢岳炭鉱です。1900年より採掘を開始し、閉山したのが1962年になりますが、閉山から62年が経過した今も尚様々な痕跡が残ります。
特に1枚目画像の巨大ホッパーは、北松炭田の炭鉱跡の代表的な遺構の1つとして一部の人には知られるものです。その威容は長閑な漁港の風景には異質な存在感を放っているものですから、この辺りの道路を通行したことがある方なら、もしかすると印象に残っている方も多いのかもしれません。
実際に、これ程の規模のホッパーが現存するのは貴重なもので、下記の記事内でも「これ程の規模のものは長崎県内唯一」であるとの話も見られます。閉山から60年超経過していながらも現状は比較的状態は良さげではありますが、地域で保存に向けた活動がなされている様子は特になく、海沿いにあるからか塩害や老朽化により所々鉄筋向きだしになっていたり穴が空いていたりと、閉山から長く時間が経過してしまったこともあり、少しずつ老朽化がその姿を蝕み続けている様子が見て取れました。見られる内にしっかりと目に焼き付けておきたいところです。
ちなみに地域住民の方が猫を飼っているのか、丈夫そうなロープに繋げられた状態の猫2匹がホッパーの脇にいて、仲良く遊んでいたのも印象的です。

しかし、この矢岳炭鉱跡。山間部へと目を向けると他にも遺構が散見され、中には用途は異なれど現役の設備として活用されている事例も見られます。2枚目画像のシックナーは、炭鉱施設として使用されていた頃は、石炭とボタを選別する等の目的で使用されていましたが、炭鉱閉山後の今では、すぐ知覚の浄水場の設備として貯水等の目的で活用されています。炭鉱設備だった当時から水を使う設備であったことが幸いし、閉山後もこうして水に関する設備の一つとして活用されているのです。
さて、シックナーからさらに山手の方へと向かってみます。鬱蒼と木々の茂る砂利道を暫く歩いて行った先に見えてくるのは、広大なソーラー発電所。かつて炭鉱関係の施設が並んでいたであろう広場は、時期不明ながら(少なくとも2018年秋にはこうなっているのを確認済み)その形を変えてしまっていました。この辺りに貯炭場があったようですが、ソーラー発電所整備の際に喪失してしまったようです。まあ、山中に広大な遊休地が残り続けるのも勿体ない話ですしね・・・とは思いつつも、貴重な遺産が消えてしまったのは寂しい限り。

そんな多くの施設が姿を消した矢岳炭鉱跡ですが、変電所だったとされる施設は現在もその姿を残していました。丸窓がお洒落なこの建物は、閉山後も地域の方が倉庫として使用しているらしく、周辺がソーラー発電所に変貌した今でも、劣化の進行や周囲の植生が気になる所ではありますが、その姿を留めておいてくれてました。今年訪問の際には接近が難しかったため確認できませんでしたが、過去の訪問時には碍子が残存していたのも確認しており、変電所らしさを微かに感じさせてくれてました。
ちなみに、この変電所近くには坑口も残存。今年訪問時には茂みに隠れてしまってましたが、入口付近をコンクリートで覆工されていた坑口の様子を過去に確認済みです。風雨などで崩落してない限りは現在も口を開けているはずですが、開けてるか否かに問わず、何十年と放置されている坑道はとても危険なので入坑はやめておいた方が賢明です。誰も責任は取れませんし。

閉山から62年。稼働していた頃は出炭も多かったと言い、楠泊地区の繁栄を漁業と共に支え続けていたこの矢岳炭鉱跡。広大な敷地の跡、そして現在も残る大型の構造物群がかつての繁栄を静かに語り、その中には形を変えて現役の施設も存在する等、僅かながらも炭鉱のDNAはこの地に息づいていることを実感させられました。
また、変電所跡の建つ広い炭鉱関係施設の跡地は、ソーラー発電所として新たなエネルギー創出の場になっているという点も興味深い点です。かつては石炭という資源を採掘することで産業の発展を支えてきた場所が、今では電力を生み出して誰かの生活を支えている場所になっている――エネルギー政策の転換ここに極まれりといった様相を呈しています。
貯炭関係の施設の痕跡が喪失しているのは惜しいところですが、地域としては安全上の観点で廃構造物の転がった広い遊休地をいつまでも放置するわけにもいきませんから、このように別の形で再利用するというのも正しい選択肢なのだと思いますし、炭鉱跡のエネルギー供給源としての再出発を見守っていくことも大切なことなのかもしれません。
(※ソーラー発電所に対して、色々考えをお持ちの方はいらっしゃるでしょうし、私も思うことが無い訳ではないのですが、今回はそのような議論を展開するつもりは全くないので悪しからず)
過去と現代で生み出すものは異なれど、誰かの生活を支えるエネルギーの源として今も昔も機能しているこの炭鉱跡は、北松炭田の炭鉱跡の代表格にふさわしい場所の1つではないかと個人的には思うのです。

4.鹿町:日鉄鹿町炭鉱跡

鹿町炭鉱跡で印象的な2連坑口跡(2018年撮影)今では近隣の浄水場の水源となっている。
山の麓に残る巨大なシックナー跡(2021年撮影)その大きさは、この炭鉱の隆盛を感じさせる。
山中に残る煉瓦造りの小屋(2018年撮影)近くに送風用の坑口があったらしいがその関係施設か。

最後に紹介したいのは、旧鹿町町の旧日鉄鹿町炭鉱(第一坑)です。
先ほど取り上げた矢岳炭鉱から更に北上した大加勢地区にかつて存在した大規模な炭鉱です。第一坑と記載しているのは、大加勢地区から少し北上した船ノ村地区や鹿町地区に跨がるような形で、第二坑(八尺炭鉱という別名もある様子)が稼業していたためです。「鹿町炭鉱」を紹介するなら、そちらも紹介すべきなんでしょうが、今回は大加勢地区の第一坑に絞って紹介させていただきます。
1951年度には約25万トンの出炭を誇る等、北松炭田有数の規模を誇る炭鉱だった鹿町炭鉱ですが、その同炭鉱の繁栄ぶりは1956年公開の特撮映画『空の大怪獣ラドン』で見られます。空の大怪獣ラドンは九州を舞台とした映画で、物語の中では「阿蘇付近に存在する炭鉱」が登場するのですが、その「阿蘇付近に存在する炭鉱」のロケで使われた炭鉱こそ、この日鉄鹿町炭鉱になります。映画の中では、上に掲載した坑口の現役当時の姿をはじめ、炭鉱施設の数々や張り巡らされた運炭用トロッコの軌道、人々で賑わう炭鉱住宅の様子等、鹿町炭鉱が稼働していた当時の姿が克明に映され、その繁栄ぶりを感じることが出来る貴重な映像資料となっているのです。
現代風に言えば『特撮映画の整地』である当地。映画撮影期間中は、当時のスター俳優の姿を一目見ようと地区の内外から多くの見物人が押し寄せて賑わっていたようです。
なお、同映画に関して補足して言うならば、公開後には劇中に登場した完成直後の西海橋や阿蘇地区の観光振興、天神岩田屋の集客へ大いに寄与したといい、さながら現代の「アニメツーリズム」「聖地巡礼」と称される、アニメや漫画、ゲーム等の舞台(これを“聖地”という)をそれら作品のファンが周遊して物語の世界観を楽しむという、現代の観光振興施策に近しいものを感じさせる話が残っています。

・・・・・・話が脱線して収拾がつかなくなる前に本題へ戻しましょう。
そんな映画の舞台にもなった鹿町炭鉱でしたが、周辺の炭鉱の例に漏れること無く、同炭鉱も映画公開後の1960年代に閉山に至っています。長崎県北有数の大規模炭鉱だった同炭鉱も、エネルギー革命等の世の中の変化には耐えられなかったのです。
閉山後の同地区は、元々鉄道が無くバスしか公共交通機関が無かったこともあってか過疎化が現在まで進行している状況。しかも近年になり佐世保市街地へ直通するバスが廃止され、大加勢にあるバス車庫も乗務員やガイドの宿舎だった建屋が解体される等、佐世保からの心理的距離は遠のきつつあり、地域の衰退へ拍車をかけ、かつ繁栄の証左たる施設は姿を消してしまっていました。

そんな大加勢地区の山の中には、炭鉱時代の面影がひっそりと残っていました。代表的な遺構と言えば、恐らく一番最初に紹介し、映画にも登場したという2連坑口ではないかと思われます。
坑口が2つ連なるというものは、全国的に見ても希少な存在ではないかと思われます。また、坑口はモルタルで覆われている他、左右どちらにも上部に扁額が掲げられ、その中間には日鉄炭鉱の社章が飾られて(画像では分かりにくいのですが)おり、同炭鉱の主力坑として重要視されていた様子が窺えます。蔦や植生の進行が気になる所ではありますが、坑口の状態は比較的良い状態で残っていると思いますし、ここまで上等な坑口が残っているのも閉鎖され埋められたり土砂崩れ等で崩落した坑口が多い北松炭田では希少な存在ではないかと思われます。実際、この坑口から少し離れた所にある同炭鉱の別の坑口は、2021年訪問時点で山中で土砂や落葉の中に埋没し扁額がかろうじて視認できるような状況でした。3年ほど経過した今では、完全に埋没している可能性も否定できません。
現在この2連坑口は、湧き水が豊富であることから、近隣の浄水場の取水口として活用されている様子。かつて大量に出炭していた坑口は、形を変えて、大量の水を地域へ供給する水源となっているのです。
2枚目の巨大なシックナー跡は、先ほどの2連坑口から下った先にあります。残念ながら建設会社の敷地内にあるため接近して確認することは出来ませんが、敷地外からでもハッキリと見える大型の円形構造物の姿が、この静かな町が炭鉱で栄えていたことを示す何よりも証拠となっています。ちなみにシックナーの左にチラリと見えるのは「原炭ポケット」と呼ばれる貯炭施設だと思われますが、草木に覆われている上に接近が出来ない状況であるため、状態をハッキリと確認できなかったのが惜しいところです。
周辺は炭鉱住宅由来と思しき集合住宅や住宅街が見られ、炭鉱が盛業していた往時は通勤で行き交う炭鉱労働者やその関係者で賑わっていたことと思います。そんな炭鉱街の入口にあるのが、西肥バスの大加勢バス停です。かつてはこの近くに「加勢会館」と呼ばれる施設があり、地域の文化施設として映画の出張公開や演劇等の様々な面で活用されたようですが、今やその姿は影も形もありません。
そんなかつての炭鉱住宅街から南の方へ、再び山の中へと入っていきます。山の中にぽつんと残る田畑の奥にはコンクリートで作られた火薬庫と火薬による事故の被害を抑制するための築堤が残っておりまして、そこから少し逸れた山中には3枚目の煉瓦造りの小屋が残っています。閉山から数十年もの時間が経過した今となっては、その使用目的を特定するのは難しいのかもしれません。ただ、近くには坑内への送風等の目的で坑道が開けられていたとの話もあり、そういった換気設備が備わっていた小屋だったのではとも思うのですがどうなのでしょうか。もしくは、ランプ小屋とか?・・・・・・使途不明の施設が残っているのもまた一興なのかもしれませんが。

北松炭田有数の規模を誇り、映画という形でその栄華を形として残した稀有な炭鉱である鹿町炭鉱跡。
過去にこの地域の炭鉱施設を見に行った際には、地元在住の方に親切に案内していただいたり話を聞かせていただいたりと、閉山して数十年が経過した今でもなお地域の方の胸に強く刻み込まれた大切な場所であることを感じさせられた場所でした。実際この近くにある長串山つつじ公園の案内所でも、炭鉱があった当時の写真や映画撮影の時の写真が展示されており、大加勢地区の大切な歴史の1ページとして今も語り継がれているのかもしれません。
大規模な炭鉱が存在し稼業していた事実は、今もなお大加勢地区の人々の誇りなのです。

おわりに

鹿町炭鉱の第一坑(2021年撮影)記憶の風化と共に痕跡は姿を消しつつあると感じさせられる。
佐世保市内にあった「山住炭鉱」跡の巻上台座の脇を行く、西肥バス十文野線(2021年撮影)

今回紹介したのは、あくまで現在の佐世保市内にあった炭鉱の一部を紹介したまでです。紹介した炭鉱以外にも小規模中規模問わず市内各地に点在したことを考えると、如何にこの北松炭田が石炭の埋蔵量や質に恵まれていたのか、そして石炭が日本の近代化にどれだけ寄与してきたのか、感じられるのではないかと思います。
しかし、炭鉱の閉山が昭和30~40年代頃に相次ぎ、この北松炭田で最後の方まで残った炭鉱が閉山したのも、今から約50年前の話です。私のような若年層からしたら、その当時の生活や風俗の様子を想像することは難しく、そもそも佐世保周辺に炭鉱があった事実を知らない人間が殆どではないかと思います。私より上の世代にしたって、炭鉱を知る世代でもどれだけ覚えているかというのも人それぞれですし、元炭鉱労働者だったという方も高齢化が進んでいる状況です。
炭鉱跡の多くは、長い年月風雨にさらされて手入れも管理もされなくなったことで、ただ自然の摂理に則って朽ち果てていくばかりです。いや、少しでも形が残っている場所はまだ救いがあるでしょうか。炭鉱跡によっては、宅地開発等の影響で、炭鉱の痕跡どころか石炭を掘り出していた山すら消えてしまっていることもあったりします。山の中にある坑口となれば、いつの間にか土砂の中に埋もれて見えなくなっていることも、危険だからと早い内に人工的に埋められていることも珍しくありません。炭鉱の存在を示すものは人々の中にある記憶が風化していくのと比例するかのように、その姿を消してしまっているのです。これは別に北松炭田に限った話では無く、全国各地の炭鉱跡全てに共通する話です。

しかし「そこに確かに炭鉱があった」という事実は変わりません。そこにあった炭鉱で毎日汗を流しながら石炭を採掘し、己の家庭生活を支え、地域の生活を潤し、産業の発展に貢献してきた、炭鉱労働者の姿があった事実も紛れもない事実です。その常に死と隣り合わせの危険な環境で働く労働者を労って一家団欒を作り上げてきた労働者家族の姿があったのです。
大規模だろうと小規模だろうと、間違いなくその“ヤマ”に身を捧げる覚悟で石炭を掘り続け、家庭も地域も守ろうとしてきた人々の存在があったからこそ、炭鉱の記憶が今もなお生き続け、そして人知れず生活の側にその痕跡を残しているのです。
とはいえ、知らない人間が増えつつあることもまた事実。その記憶をどのように残して、これら過去の事実を伝えていくべきなのか。その問いかけに対する回答の一つとして、今回の記事を執筆するに至りました。その割には稚拙で薄い内容になってしまったかと思いますが・・・・・・。

1人でも多くの方が、この佐世保の“ヤマ”について知っていただくきっかけになれれば幸いです。軍港佐世保の縁の下の力持ちとして、長らく地域経済を支えてきたこれらの“ヤマ”が、その価値を再認識される時が来ることを願っています。

余談「空いっぱいに」

話は変わりますが、皆様は「西海讃歌」という曲をご存じでしょうか。正式な曲名は『合唱と管弦楽による『西海讃歌』』となります。

長崎県民なら、世代にも寄りますが「テレビ長崎の22時台の天気予報の曲」といえば通じるでしょうか。「ロマンの銘菓「長崎物語」の提供で~」と放送されていたあの天気予報の曲です。私この歌大好きなんですよね。
人々の営みと自然の美しさが調和した佐世保の風景の魅力が、荘厳さと流麗さのあるメロディーによって描かれた、とても美しい曲です。
この曲の後半では合唱パートが入るのですが、そこで使われている詞というのが「空いっぱいに」(作詞:藤浦洸)という詩になります。元々藤浦氏が発表していた詩だったのですが、西海讃歌作曲者の團伊玖磨氏が、西海讃歌を製作する際に、この詩の歌碑を見て曲中への使用をすぐに決めたという逸話が残っています。
そんな「空いっぱいに」という詩の内容は以下の通りです。

弓張岳にある「空いっぱいに」の歌碑。アルカス佐世保にもこれを模したモニュメントがある。

空いっぱいに 空があるように
海いっぱいに 海があるように
人よ 心いっぱいに 美しい心を持って
この空を この海を この土を 愛そう

最初の方でも書いたとおり、佐世保と言われるとどうしても「港町」のイメージ・・・・・・つまりは「海」の印象が強くなりがちかと思います。市街地は「軍港」として整備されたことで発展してきたし、ハウステンボスだって海辺のエリアを整備して作られたテーマパークですし、パールシーリゾートも九十九島を周遊する遊覧船を運航しています。海とは切っても切り離せない関係にあります。
しかし、佐世保は何も海だけで出来た町ではないのです。「山」だって忘れてはいけないのです。確かに弓張岳等のような展望台のある山、長串山のような花々の美しい公園もありはしますが、何も「観光地やレジャー施設がある山」だけではなく、佐世保軍港を長い間ずっと支えてきた“ヤマ”の数々だってあるじゃないか!ということを改めて言いたいのです。
様々な海の景色も、様々な山の景色も、それらを覆うように青く澄み渡ったあの青空も、佐世保の全ての営みを構成する大切な要素。一つでも欠けてしまってはいけませんから、それら全てを愛することが出来るように「佐世保」の様々な表情を深く知って、そしてそれらを広く大きな心を持って受け止めていけたらと思うのです。

最近、様々な面で「佐世保のことが好き」だと言って下さる方をよく見かけます。そういうコメントを多くいただけるのは、長崎県出身の人間としてはとても喜ばしいことです。そのような方と、佐世保の様々な表情について共有し楽しんでいけたらと思いますし、この記事等をきっかけに佐世保に興味や関心を抱いて下さる方が1人でも増えたら嬉しいですね。

長くなりましたが、ここで筆を置かせていただきます。
ご覧いただき、誠にありがとうございました。

――さて、次はどんな記事を書きましょうかね。


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