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himegoto

東京に来て10年が経って、たくさんの人が私の元を訪れそして去っていき、私自身も漂流を繰り返して、どうしたわけだか、私は今四国にいる。
「おじいちゃんがなくなった」
色々なものを忘れて、眠って、目覚めて、ドアを開け、そして閉め、一生で何度目かの生卵をご飯の上に落とす。
痛みを忘れたくなくて、でもそんな痛みですら去っていき、祖父の死だけが私のもとへ。
おじいちゃん、おじいちゃん。
私がこれまで触れて、そして触れずに避けてきたたくさんの人たち。
痛みが時を経て、これまでとは別の形でまた蘇り、そうして私に何度も語りかける。
一生で何度目か、醤油を机の上にこぼした。
「2ヶ月ほど留守にします。その間の家賃はちゃんと振り込むので、心配なく。」
祖父の葬式から帰宅して、吹けば飛ぶようなメモ用紙に書かれたその一行を円錐状のダイニングテーブルの上で見つけてから既に5ヶ月以上が経過していた。約束通り家賃は毎月きちんと支払われている。そういう奇妙な丁寧さが彼女にはあった。部屋からは次第に記憶が失われていった。私は前と変わらず、彼女とシェアしていた化粧品や服を使い続けていて、そしてその匂いは次第に薄れ、自分自身ともなんともいえない香りへと部屋の全てが変貌していった。しかしふとした拍子に、それは襖を開けたときや風呂場のファンを回したときなど、自分の匂いに取り込まれない香りが微かに立ち上がる時がある。香りは記憶と似ている。その瞬間に私は過去に戻ることができる。それは具体的な形を持って眼の前に現れるというより、私の現在を根こそぎ引き剥がして一切の感覚を塗り替えて、私を過去へと連れ去っていく。
街の香り。時間の記憶。窓から寸分の狂いもなくやってくる太陽光。フローリング。床に落ちた一線の髪。ブラックコーヒーに落ちるミルクのきらめき。外一面の5月の雲。
時計を見ると11時。お昼ごはんの支度だ。
買い物に外に出た。大通りを歩く。休日の人たち。通りの人の、ちらっと私に視線を送っては、見て見ぬふりの繰り返し。
「2850円になります。」
「はい。」
レジ打ちの前に立つ高校生くらいの男の子。左唇の上にひげの剃り残しを発見。少し伸びたツーブロックの髪型に無造作にワックスのあと。片方の眉毛は、整えようとして失敗したのか。
私が少しの間じっと見ていると、男の子は緊張したのか、意味もなくレジのキーボードをカチャカチャやって視線を逸した。
「これは、おつりです。」
奇妙な応対。手で釣り銭を受け取る。骨ばった指先。
いつかの私の憧れがここにあった。
「ありがとう」
笑顔で爽やかな退店。さわやか会社員。
28歳の私には彼女と祖父の喪失を、そのままそっくり欠落したものとして自分自身の中に残して置けるだけの力があった。レズビアンであることで拒絶されることには慣れていたし、疎外感を美徳にするほどの幼さはもう私にはなかった。25歳のときの自分にはこんな力はなかった。26歳のときはほんの少し、おとなになった気がした。27歳のときはそれが誤りであることを知った。今月、5月に私は29歳になる。29歳の私は何を知るだろうか。30歳の私はどうなっているだろうか。40歳、50歳、60歳、そしてその先の自分はどこで何をしているだろうか。10代から20代の私は群馬のレズビアンとして生まれ、東京でスタバのバイトから正社員になって、今は四国で不動産を売っている。28歳の私は吉野川の川瀬で何時間も立ち止まっていて、そして何度も鳩に足を踏まれている。人間は鳩に踏まれるほどに、自由だ。
70歳の私は28歳の自分をいつか誰かに語るだろうか。葬式で見た祖父の顔を思い出す。祖父の、20代最後の出来事を想像する。毎日バイクで伊勢崎から海の見えるところまでバイクで走り回って、首都高で150km/hの速さでかっ飛ばしながら大黒ふ頭まで何時間もかけて、なんの意味もなく走るのだ。バイクの後ろには毎日違う女の子をのせて、そして乗せるその時だけ100km/hくらいに速度を落とす。鉄パイプでランボルギーニやアストンマーティンに救いようのない傷をつけて、何度も警察に捕まって免停寸前の毎日。そんな半グレの、やりたい放題の祖父。私の直感はだいたい間違っているから万に一つもそんなことは無いのだろうが、あんな涼しい顔をして死んでいる祖父がそうだったら愉快だろうなと思った。
引っ越しの荷物が一通り届いたものの手をつけるのも面倒で、とりあえず地上5階のベランダを開けて広瀬川をぼんやり眺めた。5月の午後6時の広瀬川。人生で一度も吸ったことがなかった煙草を何かの記念に一箱だけ買ってみた。百均で買ったライターで火をつける。一気に煙を飲み込んで最後には肺まで。コーンの泡のような不思議な感触。グンっと熱が一気に入り込んできてむせた。涙目。げほげほむせて大変だった。気を取り直して今度は控えめに。すーっと煙が入り込んできてそして出ていった。ピース。
はじめて煙草を吸ったこの日から、私の5月は広瀬川の月。ベランダに簡易コンロを出して、煙草の箱ごとすべて燃やした。ぼうぼうと燃える煙草の煙。早速大家から苦情が来るだろうなと思って憂鬱になる。
煙草と川と憂鬱と。
誰にも言わない。これが28歳最後の、私のひめごと。

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