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ネタバレあり 零~月蝕の仮面~とは何だったのか とある零プレイヤーの私考察

○零~月蝕の仮面~とは

零~月蝕の仮面~とは、テクモ(現コーエーテクモゲームス)開発・任天堂発売のWii用ホラーゲーム。「零シリーズ」第四作目であり、2008年に発売され、2023年にPS4/PS5、Steam、Switch、Xboxでリマスター版が発売された。

「誰も憶えていない事は、存在しない事になるのだろうか…」

ストーリーは、本州の南に浮かぶ島「朧月島」で十年に一度開かれる「朧月神楽」の日、5人の少女が神隠しにあったことから始まる。5人は発見されたとき過去の記憶を失っており、その後島を離れた。そして、その2年後に島から島民が消えるという事件が起こる。島民失踪事件の8年後、神隠しに遭った5人の少女のうち、2人が顔を覆い、泣き叫びながら相次いで死に、残った3人のうちの2人、「麻生海咲」と「月森円香」は、その死の真相を探るため、臘月島へと向かう。そして最後の1人、「水無月流歌」も2人を追いかけ朧月島へと向かう。それは3人が「月幽病」という、病気の治療のためにかつて入院していた病院であった、というものだ。

○ネタバレと攻略までのあらすじ

本作は、「流歌」「海咲」、そして、「流歌」の母親から「流歌」の捜索を頼まれた「長四郎」の3人を主人公として、朧月島や月を見上げるようになり顔がわからなくなり自我を失っていく風土病の「月幽病」、8年前に島から人が消えた「無苦の日」などの謎が明らかになっていく。
10年前の祭の日、朧月神楽の裏で「流歌」「海咲」「円香」を含む、月幽病患者であった5人の少女たちは誘拐され「奏」となり、灰原病院の地下で院長の娘の「蒴夜」を器とした儀式である「帰来夜」が行われた。それは、その10年前に「朔夜」がやはり器となり発症した月幽病の治療を行うためであった。
しかし、「帰来夜」は失敗し、「朔夜」は生きながらにして死んだ状態となり、2年後に見たものを強制的に咲かせてしまう「咲いた」状態で目覚め、朧月島にいた全員を咲かせてしまう「無苦の日」を引き起こした。
「海咲」は「朔夜」の前に倒れ、「長四郎」は「無苦の日」に「朔夜」の弟であり、姉の月幽病治療のために犯罪や実験による殺人を繰り返していた「灰原曜」と相打ちになり死亡し、自分がその日を繰り返していたこと、すでに死んでいることを思い出す。
「流歌」は父である「宗谷」の打った「月蝕の面」を完成させ、面打ちの家系である「四方月」の白眉であった「宗悦」の念に支配された父の怨霊を撃退しながら、月蝕のこの日に月読崎灯台の最上階で共鳴を引き起こし、人類全てを咲かせようとしていた「朔夜」を「月蝕の面」と「月守歌」によって鎮める「帰来迎」を行って、「朔夜」と「無苦の日」で咲いた全ての島民の魂を「零域」へと返す。その中には父の魂もあり、父の魂が「零域」へと帰る中、どうしても思い出せなかった父の優しい顔をやっと思い出せたのであった。

ざくっと、お話をまとめるとこのような感じである。だが、ストーリーはさておいて、筆者としては、「月蝕の仮面」は零シリーズの中で最も深く、異色の作品であると思っている。

○その前に、「射影機」とは

零シリーズでは、「射影機」という特殊なカメラが登場する。射影機は民俗学者の麻生邦彦博士により作り出された「ありえないもの」を写し出せるカメラであり、撮影することで残留思念や過去を見聞きしたり、怨霊を除霊したりできる。
零において、月霊灯を除けば、射影機は怨霊に対抗するためのほぼ唯一の手段であるが、そのためには射影機を覗き、襲い来る怨霊を正面から見つめ、恐怖と闘いながら極限の刹那を切り取り写し撮ることが必要である。
この一瞬は、だいたいの怨霊の攻撃が主人公にヒットするぎりぎりのタイミングであり、つまりこの収束した極限の断面を捉えた瞬間が「フェイタルフレーム」である。


しかし、この射影機を使うことにより、「ありえないもの」との繋がりが深くなり、所有者は不幸な最期をとげることも多いのだという。深淵を覗くとき、深淵もまたプレイヤーを覗き込んでいるのだ。長くなったが、ここまでが前置きである。

○「月蝕の仮面」における主人公とラスボスとのかかわり方

零シリーズにおいては、禍刻霊、絶対霊と呼ばれる、除霊できず、場合によっては即死攻撃を行ってくる霊が存在する。序盤でこの霊と対峙した際は逃げるかアイテムを使ってしてやり過ごす必要がある。しかしながら、この絶対霊は全てのシリーズにおいてラスボスであるが、物語の後半に行くにしたがって、射影機によってダメージを与えられる、つまり除霊できるようになる。これはかなりご都合主義な設定のように思えるが、実はそうではない。

主人公は物語の進行を通して、絶対霊や儀式に繋がるヒントやファイル、写真、動画や記憶などを辿り、あるいは射影機を通して、絶対霊や死んでいった人たちの気持ちを理解していく。そのなかで、絶対霊との深い繋がりが発生し、その縁によって初めて、強力な怨霊である絶対霊の除霊が可能になるのである。そして他の零作品において、各々の霊と生きている人間の間には、対応するキャラクターがいる。その中でたいてい主人公はラスボスやラスボスと最も縁深い者と親和性が高く、最終的には霊やラスボスの気持ちを深く理解してしまうため、プレイヤーは不幸を背負って亡くなっていったラスボスと主人公を重ね、最終的にラスボスを本当に除霊してしまっていいのか、といった迷いさえ覚えることになる。

ここで、「月蝕の仮面」におけるラスボスである「朔夜」と最も深い関係性を持つプレイヤーキャラクターは「海咲」である。「海咲」は、咲夜と同じ霊媒体質であり、月幽病が悪化する前の咲夜から、魂を入れる器としての人形を譲り受け、その人形は「朔夜」の「夜」、「海咲」の「海」をとり、「海夜」と名付けられる。作中では触れられないが、「海夜」という名前は「咲(朔)」が意図的に抜かれており、「この子がいれば、あなたは咲かない」という言葉からも、「海咲」が咲かないように祈る姿勢が見て取れる。だが、「海咲」は「朔夜」を完全に除霊することはできず、灰原病院の地下で咲いた状態ではない「朔夜」に抱き留められ倒れ崩れるところで彼女のチャプターは終わる。

一般的な解釈では、「海咲」はこのとき死亡しているが、ハードモード以上の難易度のエンディングの解釈では、「円香」の霊と和解し、彼女に助けられて生還するとされている。ここについては、筆者は少し異論があり、共鳴により全人類を咲かせようとした「朔夜」であったが、このときは咲いていない状態で海咲の意識を落としており、地下であれば共鳴が起こったとしても「海咲」が咲かない可能性がワンチャンあるため、「朔夜」は最後まで「海咲」を思いやっていた可能性があると思っている。(一般的な解釈ではないため、筆者が可能性として信じているだけである)

上記のことから、ラスボスである「朔夜」と共感していくべきは「海咲」であり、メインの主人公である「流歌」ではない。むしろ「流歌」には「朔夜」と共感するシーンは全くと言っていいほど存在しない。「流歌」は「帰来迎」を成功させるために必要な「月蝕の面」を打つ四方月家と、「月守歌」を継承する月守の巫女との家系のハイブリットの子供であり、「流歌」は「帰来迎」を成功させ、「朔夜」を鎮める役目を生まれながらにして背負っているように見えるのである。

○なぜ、「流歌」は「朔夜」を鎮めようと思うのか

前述したように、「流歌」は「帰来迎」を成功させるための二つのピース、「月蝕の面」と「月守歌」を継承する二つの家系の子供であり、だからもし父である「宗也」と母である「小夜歌」が協力していれば、10年前の「帰来迎」は成功していたかもしれない。

また、月読崎灯台の一番上に、月守の巫女に伝わる、「月奏器」が置かれていることや、「朔夜」が全人類を咲かせるための共鳴を行おうとしている「帰来迎」から10年後の月蝕の日に「流歌」がたまたま、朧月島を訪れている(神隠しにあった5人のうちの2人が亡くなるなど、「流歌」が朧月島を訪れる前兆があったにせよ)ことなど、運命的としか思えない偶然がものすごくたくさん重なっている。しかしながら、やはり「流歌」が「朔夜」を鎮める理由としては薄い。「流歌」は別に「朔夜」に恨みがあるわけでもなく、共感しているわけでもない。「朔夜」が月幽病を発症したこととも、「帰来迎」の失敗も、「流歌」とは直接関係はない。「朔夜」の共鳴によって全人類が咲かせられ、人類が滅亡しようとも18歳の女の子としては関係ないだろう。しかしながら、ただ、導かれるように「朔夜」に「帰来迎」という行為を行うのである。つまり、「朔夜」の対役としての「流歌」が成立しないのである。この部分を自分なりに納得するためには、もっと丁寧に考察を詰めていく必要がある。

○「誰も憶えていない事は、存在しない事になるのだろうか…」

文学的な作品を読み解くときの手法として、物語の最初に戻るというものがある。物語の言いたいことは最初に一割、最後に八割が描かれることが多いからである。

「誰も憶えていない事は、存在しない事になるのだろうか…」

月蝕の仮面のストーリーは、「流歌」のこの言葉から始まる。単純な解釈をすれば、「人は人から忘れられたときに、本当の意味で死んでしまう」のか、父の顔を思い出せない、過去の記憶がない、ということは、父も過去も「存在しない」ということになってしまうのか、という意味合いにもとれる。

しかしながら、「流歌」は問いに対する答えを、朧月島を散策する中で、自身の記憶と共に取り戻していくのである。

それは、物語の終盤で手に入る、自身の子供の頃の最後の日記「流歌の日記 四」の記述に示されている。記述はこうだ。

流歌の日記 四


『きょう、おかあさんが いっていました。

おとうさんと おかあさんから
わたしがうまれた

そして、おかあさんにも、おとうさんと おかあさんいたって。

こんなふうにずっとずっと 
つながっていて、

ルカはその
つながりのけっしょうで。

みんなしんでしまったけど、
わたしがいるためなんだから、
かなしいことじゃないって。

ルカがここにいるために、
たくさんのつながりがあったんだ。

だから、ルカはすごくだいじな子。

そして、ほかのどんな子も、
すごくだいじな子だから、
なかよくしなさいって。

じゃあ、おかあさんと おとうさんも
すごくだいじな子だから
なかよくするね
といったら笑ってた。

わたしは、
おとうさんと おかあさんと
つながっていることが、
すごくうれしいです

つながりが、
ずっときえないことが
うれしいです』


そして、「月守歌 伝」の中に、以下の記述がある

月守歌 伝


『朧月島ニ月守ナル巫女アリ

月守ハ月ノ音ヲ奏デ、
人々ノ月ヲ守ル巫女ナリ

朧月島ニ、アマタノ月ノ音伝ハリ 
アマタノ境地ヘト誘ヘリ

月守ニ月守歌アリ
月守歌ハ心月ニ至ル
調ベナリ

ソノ調ベ泣ク赤子ヲアヤス
胎動ニ似タリ

時ニ月ニ災ヒアリ
共鳴シ、咲クナドハソノ極ミナリ

月ニ災ヒアラバ
月守ハ月守歌ニテ
荒ブル月ト魂ヲ宥メルベシ

サスレバ魂ハ
零域ニ帰ルモノナリ』


○メッセージソングなのだ

ここに、「誰も憶えていない事は、存在しない事になるのだろうか…」の答えがある。その作中の答えは、「誰も憶えていなくても、たくさんの人がつながっており、自分がそうであるように、一人一人がその証明である大事な子なのだ」ということである。そして、その調べは一つ一つの記憶が無くなってしまっても、過去現在未来の人を繋ぎ、数多の人の中の月=子を宥める「月守歌」として朧月島にずっと伝わっているのである。その根拠の一つとして、エンディングは言葉ではなく、「流歌」がピアノを演奏するシーンで幕を閉じる。ハード以上の場合は、エンディング曲が「天野月子」さんの「NOISE」から「ゼロの調律」に変化するが、「ゼロの調律」のイントロダクションの部分が「流歌」がエンディングで演奏している曲となっており、それは「月守歌」を連想させるものである。これこそが、「月蝕の仮面」の一つのテーマであり、死せる人、生きている人数多の人に垣根なく向けられた素晴らしいメッセージソングのように思う。

まとめると、たくさんの偶然にも似たつながりの中で、「流歌」は死んでしまったひとたちとのそのつながりがずっとこれからも続いていくように、月守の巫女の役目に従い、「月守歌」によって「朔夜」を慰め、父の残した「月蝕の仮面」によって、「朔夜」の魂を零域へと返す「帰来迎」を行う。それは他の零主人公がそうであるような、ラスボスと共感し、胸を引き裂かれ、半身を失うような苦悩を体験しながら、除霊せざるを得ないのとは違うものだ。静かで心穏やかな心の理由こそが「月蝕の仮面」である。他の零シリーズの、「死者を恋慕する気持ち」とは違う側面の、広くあまねく数多の名も知らない死者に対するリスペクトが根底にある、一歩踏み込んだ極致に至る深い作品だと思うのである。零シリーズはどれも好きだが、この「深い」作品として、「月蝕の仮面」は最も思い入れの深い作品の一つである。

○終わりに

筆者の私考察は、以上である。上記は、「零~月蝕の仮面~」の解釈としては、一般論ではない。ただ、「零~月蝕の仮面~」がどういう作品なのか、腑に落ちなかったり、クリア後なにかがわかりそうでわからず、心のどこかにつっかえていたりするプレイヤーは、もう一度プレイして、霊の気持ちや残されたファイルをよく理解することで、貴方だけが理解できる物語の真相に、きっとたどり着けると思うのだ。
この記事を読んでみて、別の観点で零を観測できる観点を見出した方、また、新たに零に興味を持った方は、ぜひ本編をプレイして欲しい。



スペシャル・サンクス
なお、零は1人で向き合うのも良いが、誰かの攻略を見るのも大事な観点である。
配信者の紅イングリットさんが月蝕の仮面のファイル・霊リストをとても丁寧に読み上げ配信をしていらっしゃるので、こちらも参考にして欲しい。

クレジット
零〜月蝕の仮面〜
©2008-2023 Nintendo / コーエーテクモゲームス
©2008-2023 コーエーテクモゲームス

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