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【エッセイ】 理想と現実の乖離

 もともと私はSNSやnote上で、ほとんどのことがうまく行っている風を装っていました。嘘を書いたことはないのですが、不要であると自分で判断した部分は敢えて書くことはしませんでした。その内の一つに病気があります。私は主治医から指摘もされているのですが、病識というものがほぼないので、自分が病気であるという認識がひどく薄いです。服薬もしていますが、本当は薬は飲まなくて良いのでは? と思っています。しかしながら、以前に勝手に服薬を中断したら著しく体調を崩したので、基本的になるべく同じ時間に服薬をしています。

 病気のことを書かずに来たのは、前述したように自分が病気であるという認識が薄いので取り上げなかったというのはあるのですが、自分が苦労しているということを悲観的に書きたくなかったという強い気持ちがあります。病気であるという認識が薄くても、体調の変化はほとんど毎日あるので(誰しもそうかもしれませんが)、つらいなという一言では表せない気持ちになる時もありましたし、心に引っ張られて体も体調を崩すということも、その逆もありました。でも、それを書くことで自分の中の「つらい」という認識が強まることは避けたかったですし、また、それを読んだひとにつらさの連鎖が起きることを危惧して避けていたという側面もあります。暗い気持ちに触れると、自分の心も暗く引っ張られることはあると思います。それがニュースであったり、遠くの知らない誰かの心であったとしてもです。それに思い当たった私は、気が付いた時からですが、あまりにも暗い心情の表現は避けて来ました。そして、明るい出来事や料理のこと、ゲームの感想などを主に書き綴って来ました。

 このスタンスで生まれた「私」も本当の私なのです。でも、そこには「なににも困っていない私」も生まれてしまっていました。そして、現実の自分と、病気などの負の部分を持っていない自分との間に乖離かいりが生じていました。けれど、自分がおこなって来た行動の結果なので、仕方ないと思っていましたし、病気のことについて詳細ではなくてもかけらでも記述することはとても勇気が必要なことだったので、おこなう予定はありませんでした。私はなにもかもうまく行っている、たぶん。そのような私を生み出して行ったのです。

 でも、綺麗事だったのかもしれません。私の言葉や文章はあまりに現実感がなく、人間の持つ深い感情を表現出来ていなかったのかもしれません。それはいまでもずっと探求を続けています。ただ、「なににも悩んでいない私」が生んだ言葉が近くて遠い誰かの心に届くかと問われると、頷けない私がいます。悲観的になれというお話ではありません。自分が置かれている状況や環境を認識し、生じている感情や心情を認識することは、きっと生きて行く上で大切なことだと思います。けれど、必ずしもそれを悲観的におこなう必要はないと思います。つらい状況にいる時はそうなりがちだと私は思いますが、冷静に前を見る視点を持つことが肝要だと思ってもいます。これらがきっと、少し前の私には出来ていなかったのだと思います。

 例えば創作である小説においては、現実感がなくとも私はそれはそれで良いと思っています。小説の中で現実感をえがくことが大切かは、その物語によると思います。しかし、エッセイではそうはいかないと思うようになりました。エッセイにおいて現実感がなく、綺麗な言葉や表現だけの文章で構成されていたとして、それが誰の心に届くと言うのでしょうか。それに、現実感のない小説だったとしても、その根幹には作者の人生や魂とでも言うべきものが眠り、流れていると思うので、やはり小説でもエッセイでも同様に、作者が自分を冷静に見つめているかどうかは大切な点だと思います。冷静さを欠いて熱を重要視して仕上がる物語もあると思うので、一概には言えないのですが。

 私の場合は、冷静ではあったかもしれませんが、自分の抱えている問題や心を蔑ろにしていたのかもしれません。なにもかもうまく行っている風にしなければという謎の思いもありました。美しく体裁を整えなければ、と。それは私が人間を恐れの対象として強く認識してしまっていたからかもしれません。物語や文章をひとに向けて発信したいと思い行動すると同時に、ひとからどう思われるかがとても怖いという思いも強くあったと思います。それはいまでもあります。けれど、美しく綺麗なものも素晴らしいのですが、私が本当に表現したいのはそこではないように思い始めました。輝く宝石の中のインクルージョンこそ、私のえがきたいものであるように思うのです。

 自分の内情を正直に綴れば良い物語になるかと言われると、そうとは言えないと思います。つらい思いを、ただただつらいと書いてしまっても、負の連鎖になるような気がします。少なくとも、現在の私はそう思っています。ただ、自分の内側の心、内側の声を片隅に追い遣ってしまって物語を書いても、温度のない作品になるような気がします。むかしの私はきっとそういった作品を書いていたのかもしれません。推測に過ぎませんが。

 これからの私は、自分の内側の声に耳を傾けながら、小説やエッセイを書いて行きたいと思っています。物語を通して、そこに人間を思うことの出来る作品を書いて行きたいです。

 

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