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【掌編小説】寄り添う花

 土地を相続したの、これでお金の心配をしないで小説を書くことに集中出来るわ。そう言って、俺の彼女はにこっと笑った。

 ずっと経理事務として働いて来た彼女は、良く俺に言っていた。辻褄合わせの人生だ、と。まるで貸借対照表を作っている時と同じで、帳尻を合わせているだけの自分が嫌になる、と。正社員として勤めていた彼女の休日は土日祝日で、俺は彼女を好きになってからすぐの時は良く遊びに誘ったものだった。しかし、会えない週も多くあった。今週はやることがあるの、と短いメッセージが彼女から来ると、またか、と俺は少々だが落胆していた。

 ある日、珍しく彼女から電話があった。いつも落ち着いている彼女からは想像が出来なかった興奮した声で、私の小説がランキング一位になったの! と彼女は言った。話を聞いてみると、彼女は小説家志望でずっと小説を書き続けていたそうだ。初めて小説を書いたのは二十歳の頃で、学生の頃は読書感想文を書くことが好きで良く入賞していたそうだ。俺は生き生きと語る彼女の声とは裏腹に、自分の気持ちが落ちて行くことを感じていた。おめでとうという気持ちは勿論にあり、それは伝えた。しかしながら電話を切った後、俺の手は力をなくしてスマートフォンを持ったままごとりと床に落ちた。夢に向かって彼女は歩いているのだと、俺はその日に知った。

 彼女と付き合って一年の記念日に、少し良いレストランを俺は予約した。いつもよりも少しだけ格好を付けた服装で彼女と待ち合わせた俺は、春空に太陽が綺麗に光るお昼時にレストランへと入る。そこで聞かされたのは、私、土地を相続したの、という俺の思ってもいない話だった。親族から連絡があり、土地の相続権が貴方に生じているからどうすると言われて、書類を見て弁護士にも相談した結果、相続することに決めたのだそうだ。その土地を駐車場にして、そこの収入で生活をして行くと告げられた。そんなに上手く行くのか分からなくて不安を俺が言ってみると、正社員の仕事は辞めるけど週三日勤務の派遣社員になって事務の仕事はすると言われた。経理事務は辞めるのかと聞くと、うん、と彼女はさっぱりとした顔で言った。せっかく簿記の資格を持っているのに勿体無くないかと俺が言うと、そうだね、でも辻褄合わせの人生をなぞるようでもう嫌なの、もともと母親が簿記の勉強をしていたから興味を持っただけで特に経理の仕事に思い入れがあるわけじゃないの、と彼女はサラダをしゃくしゃくとゆっくり食べながら言った。俺もサラダを食べながら話をしていたが、正直、味が良く分からなかった。俺は、彼女の心配をしているはずで、それは彼氏として当たり前のことで――そう考えるほどに俺は自分がひどくつまらない奴のように思えて来た。そんな俺の心に気が付くことがないまま、彼女はフォークをことりと置いて言った。これでお金の心配をしないで小説を書くことに集中出来るわ、と。にこっと笑った彼女は、今日の太陽よりも輝かしかった。

 俺はどこか彼女との隔たりを感じながら、それでも彼女のことが好きで付き合っていた。小説家になるという彼女の夢も応援している。そのつもりだった。執筆の邪魔にならないように、彼女に会いたい気持ちを抑え、連絡も控えた。彼女は頻繁に連絡をして来る方ではなかったから、俺が連絡をしないでいると、一週間、お互いにメッセージを送らないこともあった。社会人になると、人付き合いというのはそんなものなのかもしれない。けれど、俺と彼女は付き合っているのにという引っ掛かりが俺の中にはあった。

 五月の大型連休の初日、久しぶりに彼女からメッセージが届いた。彼女の書いた小説を読んでくれた出版社から連絡があり、デビューではないが担当者が付いてくれたという話だった。これからデビューに向けて長編の物語を書くので忙しくなるけど頑張る、と書かれていた。俺は、そのメッセージに返事をすることなくスマートフォンの画面を消した。

 五月の大型連休の最終日、俺は意を決して彼女にメッセージを送った。話したいことがある、と。すると彼女も、私も話したいことがある、と返して来た。翌週、俺達は喫茶店で会う約束をした。

 その日、喫茶店でそれぞれに注文を済ませた後、彼女の方から話を切り出して来た。

「私、自分のことしか考えていなかった。ずっと小説家になりたいと思いながら生活をして来て、週五日の仕事をしながら休みの日に小説を書いて過ごすっていうのを長い間、繰り返して来た。出会った頃、経理の仕事をしていた時に思ってた。いつもいつも辻褄合わせをしているようだって。私の本当にしたいことはこれじゃない、って。毎朝、電車に乗るのもつらかった。でも、いまとても幸せで。まだ小説家になれたわけじゃないけど、担当の方が付いてくれて色々とアドバイスをくれるから小説が書きやすくなった。この連休中もずっと小説のことばかりを考えて、小説を書いてばかりいた。これが本当の私なんだって思った。でも、この間、担当の方に言われたの。文章力はあって読者を引き込む力も持っていると思うけれど、主人公以外の人物の心情描写が弱い、って。相手の立場になって考えてみると、もっと奥行きが出て来ると思うから気を付けてみて、って。それを聞いた時に、私は同じようなことを昔から言われていることを思い出したの。小学生の時の通知表にも書かれていた。大人になってからは友人にも言われた。私はきっとそれでも相手の気持ちを考えることを苦手としたまま、ここまで来てしまったんだと思う。それが自分の作品にも出てしまっている。それで、話したいことがあるって久しぶりにメッセージを貰って読み返してみたんだけど、前回の私のメッセージに返事を貰っていないことに気が付いたの。当日、気が付いていなかった。ああ、また私は自分のことばかりなんだって思った。ごめんなさい」

 そこまで彼女は話してから、祈るように指先を合わせて俯いた。俺はと言えば、一息に話された彼女の話を反芻するように頭の中で考えていた。正直、嬉しかった。彼女の中に俺はいたのだということが分かったからだ。でも、そこまで考えて思う。俺はつまらない奴だ、と。彼女の夢を応援していると認識しながら、俺は彼女の心の中には入れないのかと思い、夢をみて歩いて行く彼女の後ろ姿を見送っているだけだったとも気が付いてしまったからだ。俺は自分を恥じた。

「良かったら、これからも一緒にいたいの。一緒にいる時間、もっと増やしたい。今更、勝手な話だって思われるかもしれないけど、本当の気持ちなの」

 彼女は両手をぎゅっと握ってテーブルの上に置いて、そう言った。その目は真っ直ぐに俺を見ていた。否定する道理など、どこにもなかった。

 ――それから沢山の時間が流れて、その間も彼女は小説を書き続けた。俺達は共に同じ家で暮らすようになり、同じ時間を多く過ごすようになった。彼女は俺を見て、俺は彼女を見ている。そのことが俺はとても嬉しく、幸福だった。

 やがて彼女は一冊の本を出す。小説家としてのデビューを果たした彼女は、その後もずっと小説を書き続けた。俺はそれを傍で見ながら、誰よりも彼女を応援して、愛していた。彼女の小説は、人物の心情描写がすごい、という評判も聞こえて来るようになり、俺達は共に喜んだ。

 ある日、彼女から一冊の本を手渡された。世界に一冊の本なの、と彼女は言った。「花のように咲く」と題されたそれは、彼女のエッセイだった。そこには彼女の目から見た俺のことが書かれていた。その場で読み始めた俺に、彼女は寄り添って言った。

「大好き」と。

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