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【備忘録】天国にいる父、此処にいる私

 ※この備忘録は、人間の生き死にを含めた内容です。


 いつか、忘れてしまうかもしれない。その怖さがあるので残しておく。十年以上の時間が過ぎているが、未だに私は父の死や、その後について理解が及んでいない。それについて思い出せる限りを此処に残す。

 私の両親は離婚している。離婚後、父は小さなアパートで暮らしていた。私は父の住むアパートに遊びに行き、一緒に食事をしたり、音楽を聴いたりした。

 私は父と暮らしたい思いがあった。それを直接、私は父に伝えたかどうかは記憶にない。手紙で伝えたことはあるが、それを受け取った時の父は癌の治療専門の病院に転院していて、手紙が読めなくて父の姉が読み上げてくれたそうだから、私の気持ちが父に届いていたかどうかは確かめられていない。

 父は最初、私に胃潰瘍だと言った。そして、市内の総合病院に入院した。私が父をお見舞いに行くと、父は嬉しそうだった。私は父にデザートや飴を持って行ったのだが、食事制限があるからと言われ、飴だけ受け取って貰えた。珈琲味の飴だ。いま思えば、もっと良いものを持って行ければ良かったのにと思う。私は家族が入院することは初めてで、なにを持って行けば良かったのか分からなかったのだ。

 病院のベッドにいる父の様子を見に来たのか、一度、医師か看護師の方が訪れたことがある。私は、お世話になっておりますと告げた。そうするべきだと思った。けれど、私の心の中は整頓出来ていなかった。お世話になってはいるが、もうすぐ父は良くなるだろうし。そんな思いだったかもしれない。

 父は私に言った。病院を移ることになったと。それは県外の病院だった。私は動揺した。治るんだよね? と、聞いたような気がする。父は、うん、治るよと言ったような気がする。父は病院内の売店で買っていたのか、ペットボトル飲料水のキャップにアニメのキャラクターが付いたものを私にくれようとした。でも、私は断ってしまった。大事に集めてるんだろうし、良いよ、と。貰っておけば良かった。

 父が転院した先の病院が、癌の治療専門の所だと私は後日に母から聞かされた。私は、とても驚いた。癌という言葉にショックを受けた。父は私に胃潰瘍だと言っていた。治ると言っていた。あれは嘘だったのか? と。母は、バイパスというものを通す手術をすれば治るらしいから、と私に言った。私にはバイパスというものが良く分からなかった。でも、とにかく手術をすれば父は治る。それを認識して、少しだけ安心した。

 当時、パソコンが自宅にあったようにも思うが、私は癌やバイパスというものについて調べることはしなかった。現在ほど、パソコンを使って私はなにかをすることはなかった。弟の部屋にある、弟のパソコンであったこともあるかもしれない。携帯電話で調べるということもしなかった。調べるという発想がなかったのかもしれない。

 私は父に手紙を書いた。私も仕事を頑張るから、一緒に暮らそう、と。その手紙には返信用の切手を同封した。きっと返事が来る。私は、そう思っていた。強く。当たり前のように。

 私の手紙は、父の姉が父に読み上げてくれたそうだ。その時、父は自分で手紙を読むことが出来なかったらしい。それが私にはどういうことかはっきり分からなかったが、もしかしてものすごく体調が良くなくて、もしかして癌が進行してしまっている……そのように考えた。手術はどうなったのだろう。そう思った。

 ある日、私は明かりを点けないまま実家の廊下に立っていた。帰宅した直後だったのか、電話の後で呆然としていたのかは記憶にない。父の姉から電話があり、父が亡くなったということを告げられた。私は、良く分からなかった。亡くなった。治るって言ってた。手術は? そうやってずっと考えていたら、母が帰宅した。父の姉から電話があって、父が亡くなったことを言われたと私は話した。その時の母の反応や言葉は思い出せない。私は、手術するんじゃなかったのかと聞いた気がする。母は、バイパスを通そうと思ったけど開いてみたらもうだめだったらしいから閉じたんだって、というようなことを私に言った。開いて、だめだったから閉じた。転移していたってことなのだろうか。そう考えて、どうしてこうなるまで母も、父の姉も、私に黙っていたのだろうと疑問に思った。いや、私が聞かなかったからだろうか。でも、父は治るって言ってたし。父の口から私に癌のことは言われていないけど、治るって言ってた。癌だって母は言ったけど、手術をすれば治るって言ってた。だけど、いま、父は亡くなったって電話が来た。良く分からない。そこまで考えて、私は自分の部屋に戻った。視界が真っ暗に思えた。涙は出なかった。

 父のお葬式で、職員の人が、喉仏の骨が残っていますと言った。とても珍しいことだとも言った。宜しかったらどなたか拾って頂けませんか、のようなことを言っていたように思う。誰も何も言わなかった。母も、弟も、親戚も。私は下を向いていたが、一歩、足を踏み出して言った。私が、と。それで良かったのかは私には分からない。でも、私が、と思った。父の遺影は親戚から私に渡された。どうしてかは分からない。父の遺影を持ち、私は歩いた。分からないことだらけだった。

 父のお葬式の帰り、父の姉からお小遣いを渡された。封筒に入っていた。私は断ったのだが、父の姉も渡して来ようとしたので受け取った。私は、母と弟と、この頃からもうほとんど会話をしなくなっていたので、父のお葬式に向かう時も一人で行き、帰りも一人で帰った。帰る家は、同じだ。

 帰宅後、父の姉からお小遣いを頂いたと母に話すと、そのお金は父が私と弟に残したものだと聞かされた。混乱した。誰が本当のことを言っているのか分からなくなった。私は、お金の入っていた封筒をベランダで燃やした。どうしてそのような行動を取ったのかは分からない。父の姉よりも、母の言葉の方を信じたからかもしれない。父の姉が手渡して来た封筒を消したかったのかもしれない。

 私は家族が亡くなるということがどういうことか分かっていなかった。父の住んでいたアパートをどうするのかとか、遺品の整理があることとかを含め、分かっていなかったのだ。

 父のお葬式からしばらくして、父の遺品が母から渡された。父が描いた絵が入ったファイルだ。他にもあったように思うが、全ては思い出せない。だが、私は驚いた。遺品があるのなら、私が父にあげた灰皿とか、水筒とか、他にも父が遺したものをちゃんと見て、受け取りたかった。何故、父の遺品の整理がもう終わってしまっているのか。それを母に尋ねると、父の親族がおこなったそうだ。私は父の娘なのに? 私は母に、灰皿とか水筒とかがなかったか聞いてほしいと頼んだ。母は渋々ながら父の親族に聞いてくれた。その結果、父の携帯電話とキーケースとキーホルダーが私の手に渡された。灰皿とか水筒とか、もっと他にないか聞いてほしいと私は更に母に言ったが、父の親族と揉めたくないからもう無理、と返された。私は父の娘なのに、遺品の整理をさせて貰えなかった。それがいまでもずっと、心にある。

 その後、私は母から言われて父の遺産相続放棄の手続きをした。私は、財産目録などを見たわけではない。そんなことを考える知識もなかった。私は母と、父の親族に言われるまま、何処かの裁判所に行って父の遺産相続放棄の手続きをした。

 私が部屋で父のことを思って泣いたのは、父のお葬式から一ヵ月くらいは経ってからだったと思う。父は幸せだったのか。私は父と暮らせると思っていたのに。治るって言っていたのに。色々なことを思いながら泣いた。

 後日、母から聞かされた。癌の治療専門病院での父の写真を見たこと。父はとても細くなっていて、スイカ割りをしていたこと。医師から、もう病気が治らないから緩和ケア病棟に移りましょうと言われた時、父は、お願いしますと頭を下げたらしいこと。母は父に会いに行っていたのだろうか。それは私が聞かなかったのか、聞いていてもいま思い出せていないのか、判然としない。

 私は後悔した。父が治ると言ったから、それを信じて待っていたこと。父と暮らせる日を夢みて、父に手紙を書いたこと。父は治るのだから。そう信じていたから、県外の病院が遠方ということもあり、お見舞いに行かなかったこと。私は、父を信じていたから。

 もっと、父と向き合えば良かった。

 だけど、父も母も私に言わなかった。父は私に最後まで、癌だということを言わなかった。母は、手術の結果を言わなかった。だから、私はずっと信じていた。父は治って、私と一緒に暮らすのだと。心の底から信じていた。

 信じていたかったのかもしれない。もっと、私から父や母に聞けば良かったのかもしれない。県外の病院でも、お見舞いに行けば良かったのかもしれない。怖いから、見ない振りをしていたのかもしれない。父が治らないかもしれないことを、考えたくなかったのかもしれない。

 いま、私は当時の自分の本当の思いが分からずにいる。父を信じていたからなのか、それとも、本当は未来が怖かったのか。分からない。

 此処まででこの備忘録は終わりにするつもりだったが、数年前、父の親族から連絡があったことも残しておく。土地の相続権が私と私の弟に発生していること。私の弟は放棄してくれたから、私も放棄してくれないかとのこと。私は、深く考えずに書類を書き、土地の相続を放棄してしまった。父の親族の誰の土地であり、何処の住所の物であり、資産価値がどれくらいあるのかも確かめずに。そんな知識は、当時の私にはなかった。放棄してほしいとお願いされたから、放棄した。それだけだった。

 この時、私は父の親族に尋ねた。父の位牌や遺影、遺品などはありませんか、と。父の絵は残っていませんか、と。もし何かあれば譲って頂けないでしょうか、と。父の親族は私に言った。位牌と遺影はあるから、娘さんが持っている方が良いだろうから、書類と一緒に送ると。父の絵は、少し前に片付けをしたばかりでほとんど捨ててしまったと。捨てた。父の絵を。少し前に。その言葉を拾って、私は呆然とした。でも、位牌と遺影があると言っている。ならば、お願いしなくては。私はそう考えて、位牌と遺影をよろしくお願いしますと伝えた。了承して貰えた。

 後日、土地の相続放棄の書類と共に、父の位牌と遺影が送られて来た。私は泣いた。やっと会えたね、これで一緒に暮らせるね、と。

 私の家には仏壇はないので、チェストの上に布を敷いて、其処に父の位牌を置いている。遺影は、私が写真は気になってしまうので仕舞っておくことにした。位牌の前には小皿を置き、飴やチョコレートを供えている。父が飴やチョコレ―トを好きだったのか、私は分かっていない。父の好きだった食事も良く分からない。

 もっと、父と話をしたかった。一緒に行ったレストランや焼き鳥のお店に、もっと行きたかった。スーパーに一緒に行きたいと言った父の申し出を、私は母に見付かりたくなくて断ってしまった。一緒に行けば良かった。私の作った生姜焼きを食べてほしかった。私の書いた小説を読んでほしかった。私の描いたうみぞう村のうみぞうたちを見てほしかった。昔の懐かしい思い出を沢山、話したかった。同じ家で一緒に暮らしたかった。父の娘でいられることの幸せを、伝えたかった。沢山のありがとうを、伝えたかった。これからの未来の時間を一緒に過ごしたかった。

 もう、叶わないものになってしまった。

 父が亡くなってから、時々、父の夢をみた。何故か、場面はいつも同じだった。白と透明の真ん中のような色をしたテーブルと椅子があり、その椅子にいつも私は先に座っていた。其処に父がやって来て、もう一脚の椅子に座る。昔の懐かしい話を私と父は沢山する。やがて遠くの方に一条の光が差す。その光を、父は振り返って見る。もう行くの? と私は父に尋ねる。うん、と父は言って席を立つ。それを私は見送る。このような夢を私は何度もみた。しかし、父の位牌と遺影が私の家に来てから、その夢を一度もみていない。

 いまでも、私は父の死を良く分かっていないのかもしれない。父の位牌を見ても、良く分からない。私は父のアパートへの道を忘れてしまっている。数回しか行ったことがなかったせいもあるとは思う。でも、私は父のアパ―トへの道を忘れてしまっているだけで、だから父と会えないだけで、父はいまもあのアパートにいるのではないかと、時々、思う。そんなわけはないと、心の何処かで私は分かっているはずだ。でも、でも、と思う。私と父の暮らす世界が異なってしまっただけで、父はいまも大好きな絵を描いているのではないだろうか。あのアパートで。もしくは、天国で。そんな風に私は思っている。

 父の描いた絵は、後日に私と仲の良い、母方の親戚から少し渡された。私の母の実家を片付けに行った時、残っていたのだそうだ。私が赤ん坊の頃のアルバムも渡され、其処には父の写真も収められていた。私は愛されていたと、そのアルバムを見て分かった。

 本当は、もっと父の遺品が手元にあったらと思う。父の撮影していた八ミリビデオのテープや、父の絵が保存されているフロッピーディスクなど。もう見られない父の絵を思うと、言葉にならない気持ちになる。

 この備忘録に、父が描いたトビウオの絵を飾ることにした。トビウオかは分からないが、私は初めてこの絵を見た時に、空を飛ぶトビウオだと思った。天国にいる父の所まで、飛んで行きますように。

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