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【掌編小説】月と太陽

 ――時々、君が闇夜に沈んで溶けて行く。



 付き合って五年目になる彼女からの、メールの返信が途絶えた。途絶えたなんて大袈裟な。そう言って笑う同僚との会話を適当に切り上げて、僕は彼女の家に向かった。急に行ってもいないかもしれないとか、急に行っても迷惑かもしれないとか、そういった思いには蓋をした。

 午後六時半過ぎということを携帯電話の時計で確かめる。電車が彼女の家の最寄り駅に着くまで、三十分程。それまで僕は電車の中で短いメールを書いて彼女に送る。それにも返信がないまま、僕は最寄り駅に着いた。

 駅から彼女の家までは徒歩十五分くらいだ。慣れた道を急ぎ足で辿る。冬が終わりかけなのか、少しぬるいような風が吹き抜けて行く。

 ピンポン。彼女の住むマンションの階段を上り、インターフォンを一度、押す。少し長めに待ってみたが応答がない。ピンポン。僕は再度、インターフォンを押してやはり少し長めに待ってみた。応答がない。僕は気持ちが急くのを抑えながら、彼女の携帯電話に電話を掛ける。無機質な呼び出し音。出ないだろうか。そう思いながらも携帯電話を耳に押し当てていたら、彼女の「もしもし」というくぐもった声が聞こえた。

「急にごめん。メール来なくなったから心配になって家まで来たんだ」

「いやいや。こちらこそごめん。玄関の前にいる?」

「うん」

「今、開ける」

 程無くして玄関の扉の鍵とドアチェーンを開ける音がして、がちゃと扉が開かれた。

「やっほ」

 ルウは少しだけ笑って、片手を上げて見せた。

「お土産とかないんだけどさ」

「いいよいいよ、ありがとう」

 扉を広く開けてルウは僕を招き入れてくれた。

 リビングまで続く短い廊下を二人、真っ暗なまま歩いた。リビングも真っ暗だった。そこに繋がる洋室に入ると、レースのカーテン越しに月と街の光がうっすらと入って来ていた。照明は点けられていなかった。

「何か聞こえる」

 僕がそう言うと、ルウは携帯電話を操作した。ぴた、と音が止んだ。どうやらイヤホンから音楽が流れていたらしい。

「何してたの?」

「音楽、聴きながら月を見てた」

 そう言って、もともとそこにいたのか、ルウは窓辺に座り込んだ。窓は閉められていたが、冬の終わりかけだとしても窓辺は冷えるだろう。僕はルウの足元に投げ出されていたブランケットをルウの膝に掛けた。ルウが、ありがとうと言った。

 少しの沈黙があった。ルウはぼんやりと三日月を見上げた後、不意に僕を見た。さらりとルウの黒髪が揺れた。

「ごめん、メール」

「ああ、うん。それは気にしてない。でも、心配だった」

「うん」

「何か、あった?」

 僕の問い掛けにルウは黙り込む。その表情は先程から少しも変わらないようでいて、何かを耐えているようにも見えた。

 私ね、とルウが話し出す。

「私、絵を描くことが好きで。ずっと絵を描きたいの。時間と体調が許す限り。本当は絵の仕事がしたい。でも、友達はみんな会社に勤めているか、家で子育てとか家事とかしてる。私は、どうしても絵で認められたい。けど、最近ね、一枚の絵を描き上げられない。色を塗っても塗っても、終わりが見えない。まだ色を重ねられる気がするとか、ここの色を濃くしようとか薄くしようとか。そうやって考えながら絵を描いて、色を塗って。今まで、絵で入賞したことは少ししかない。賞金を少し貰って終わり。私は絵を仕事にしたい。友達の中には、趣味とか好きなことを仕事にすると苦しいよって言う子もいる。でも、私は絵を仕事にしたい。逃げられなくなっても良い。ずっと、ずっと絵を描きたいの。それなのに、うまく行かなくて。私にはこれしかないのに。時間だってあるのに。体調は、そんなに良くないけど。でも、私には絵しかないのに。絶対に仕事にしたいのに」

 それなのにうまく行かない。そう、ぽつと付け足してルウは下を向いた。

 ルウが絵を描くことが好きで、それを仕事にしたいと思っていることを僕は知っている。きっともう今までに何十回もルウの思いを聞いて来た。ルウの絵を見たことも何十回もある。僕はルウの温かみのある優しい絵が大好きだ。

 しかし、今、それをルウに伝えたとしても届かないような気がした。どうしてだろう、同じ部屋にいてこんなにも近い距離にいるのに。少し手を伸ばせば、僕はルウに届くのに。

「ソラはすごいよ。ちゃんと会社に行けて。仕事が出来て」

「そんなことはないよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 ルウの言葉に、僕はありきたりな言葉を返してしまう。その間に僕はルウに何を言うべきかを考えていた。

「みんな、すごいなあ……」

 ぽつ、とルウが零す。

 そして、ルウはまた三日月を見上げた。ルウの視線を追い掛けるようにして僕も三日月を見上げてみる。レースのカーテン越しでも分かるほど、月は綺麗に輝いていた。

 僕は月からルウに視線を移す。その横顔を見て、僕は不安になった。ルウが何処か遠くへ行ってしまうように思えた。

 メールの返信が途絶えたことは今回が初めてではない。付き合っている間に、それは幾度もあった。夢みるようなふわふわとしたルウのメールの文章は、砂糖菓子のようで。それがしばらくすると、夜の闇に溶けて行きそうな不安が滲んだものに変わって行く。僕がどんなに言葉を送っても、それは届かない。まるで彼女が月にいるかのように。地球からのメールなど、まるで届かないかのように。

「ルウに絵しかないってこと、ないと思うけどな」

 少しの間を空けて、ルウが僕を見た。

「そうかな」

「うん。でも、ルウがそう言うくらい、ルウは絵が好きなんだってことは伝わって来る。ルウが絵の仕事を出来たら良いと思ってる」

「うん」

「僕はルウの絵が好きだ。同じくらい僕は、ルウのことが好きなんだ」

「うん?」

 語尾を上げて、少し不思議そうにルウが言った。

「僕は自分にしか出来ないっていうものを持ってない。だから会社に行く。でも、ルウにはルウにしか出来ないことが、絵があって、それを仕事にしたいって思ってる熱がある。僕はそれで良いと思う。他の誰が何て言おうと、僕はルウに夢を叶えてほしいと思ってる。だけど、その時もそれまでも、僕はずっとルウの隣にいたいんだ」

 続ける言葉を探して僕は彷徨う。ルウは黙っていた。

「――僕は、ルウの世界の住人でいたいんだ。ルウと話して、ルウの言葉を聞いて、ルウの絵を見て。ずっとずっと、続けて行きたい。勿論、僕は僕の世界を持ってる。僕は読書が好きだし、本の話を聞いてくれるルウのことも好きだ。依存したいっていうのじゃない。僕をルウの世界に置いておいてほしいんだ」

 少し間があって、ぎし、と床が鳴いた。

 ルウは窓辺から立ち上がり、僕のすぐ隣に座り直した。ブランケットが静かに落ちた。

「ソラ」

 ルウが僕の名前を呼んで、控えめに僕のスーツの袖を掴んだ。僕はそのルウの手に自分の手を重ねて、自分が伝えたい思いを再確認した。

「ルウの隣にいたい。ルウを支えたいんだ。ルウが、好きだから」

 ルウが俯いた。僕がルウの手を緩く握ると、ルウはそれに応えた。

「……ありがとう、ソラ」

 時間を置いて、ルウが顔を上げた。にこ、とルウが少し笑ったのが薄暗い部屋でも良く分かった。

「珈琲、飲む?」

「うん」

 ルウは僕の返事を聞きながらゆっくりと立ち上がり、照明のスイッチを押した。ぱち、という音と共に部屋は真昼のように明るくなる。その部屋で微笑むルウは、まるで太陽のようだった。

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