人間と機械

今回は、東野圭吾氏の作品、『プラチナデータ』を読み上げたのでその感想を述べる。
簡単に作品を紹介すると、「DNAによる管理で、犯罪を抑止する社会を舞台に、主人公神楽が自身に向けられた疑いを晴らすために謎を追い続ける」というSFミステリーとでも言うべき作品である。
個人的に、そんな粗筋が映画『マイノリティ・リポート』に似ているなとも感じた本作では、「人間と機械の違いとは何か?」という問いがなされている。
その答えとは何か?ということを述べようと思う。

1. まず神楽の過去と紹介から


本作の主人公は、神楽龍平という男である。彼は「特殊解析研究所(特解研)」というところで研究者をしている。この特解研というのは、国民のDNA、つまり遺伝子を用いて、犯罪抑止、冤罪撲滅を目指す機関である。
そんな神楽には、「人間の心は遺伝子によって決まる。機械と人間には違いはない」という考えがあった。
なぜそのような考えに至ったのか。次は神楽の過去にスポットを当てる。
神楽の父は、神楽昭吾という陶芸家だった。陶芸に対して厳しい姿勢を持つ昭吾の作品は高い人気を誇っていた。
だが、ある時から昭吾の作品の贋作が出るようになる。その出来は精巧で、どんな人間でも見抜けないとされた。
そのような精巧な贋作を作るのは人間ではなかった。機械だったのである。
昭吾は言った「心なき機械に人間の心が入った作品が作れるはずがない。私だったら人間が作った作品と機械が作った作品を見抜ける」と。
しかし、昭吾は見抜けなかった。昭吾は「昭吾自身が作った昭吾の作品」と「機械が作った昭吾の作品」の違いを見抜けなかったのだ。
それに絶望した昭吾は、自ら命を絶ってしまった。
この経験は神楽の心に大きな影を落とした。そして、神楽は考えたのだ。「人間と機械の違いとはなんなのか?」と。そして、彼は先程述べたような結論を手にしたのだ。
さらに、この経験が元で神楽の中にリュウと名乗るもう1つの人格が現れた。つまり、二重人格。
このようにして「機械と人間には違いはない」という考えと、2つの人格を持つ男。これが本作の主人公神楽龍平なのである。

2. 人間と機械の違いとは?

人間と機械はどう違うのだろうか?どこからが人間でどこからが機械なのだろうか?考えてみるとこれは中々難しい事なのではないだろうか。
構成している物質が違う。確かにそうだ。人間は、言ってしまえばタンパク質の塊だ。かたや機械は金属など、「タンパク質以外」の物質から構成されている。
「タンパク質でできているか、それ以外でできているか。」これは答えのひとつといえそうだ。しかし、もっと根本的な違いはないだろうか。そもそも「タンパク質かそうでないか」という分け方は、「生物か非生物か」の違いでしかない。「人間」と「機械」をはっきりと分けるものはないのだろうか。
よく言われるのは「心があるかどうか」である。人間には心があるが、機械には心がない、というものである。しかし、そんな実在するかわからない目に見えない曖昧なもので分けられるのだろうか。それに、作中では「心がない」とされる機械が「心ある」人間が「心を込めて」作った作品を模倣してしまっているのだ。
「作中では」と言ったが、これは現実世界でも起きていることだ。現在、技術はものすごい勢いで進歩している。100年培われてきた凄腕の職人の技を機械が1日で再現するということだって起きている。
「心なき」機械が「心ある」人間の作品を完璧に再現してしまう。心の有無にかかわらず、機械は人間の真似をしてしまう。ということは、心の有無というのは、機械と人間の決定的な違いというわけではなさそうだ。「心があれば人間、なければ機械」という訳でもなさそうである。
「愛があるかどうか」だろうか。しかし、愛だって「心」が生み出したものである。「人間」と「機械」を分ける決定的な違いにはなり得ない「心」が生み出したもので、「人間」か「機械」かを分けられるだろうか。
どこからが人間で、どこからが機械なのか。そんなことを考えると、人間は機械になりうるし、機械が人間になりうるという思いまで浮かんでくる。


3. 作中で示された答え

人間と機械の違いは何なのか。作品を読んで私が思った答えはこうだ。
「心を作り出すことができ、そして、その心を無にする事もできるのが人間」
なぜそのように考えたのか、その理由を述べてみよう。

主人公神楽は、殺人事件の容疑者として警察に追われる身になってしまう。逃避行の中で、神楽はある集落にたどり着く。そこは、管理社会(=特解研が行なっているようなDNAを用いた捜査が行われるような社会)を嫌う人々の集落だった。その集落で、神楽は「サソリ」と呼ばれる男に出会う。その男は、陶芸を好む者だった。
サソリの考えはこうだ。
「作品の出来は関係ない。思いは必ず手に現れる。」
神楽は、どうすれば思いを形にできるのかとサソリに聞いた。するとサソリは
「心を無にするんだ」
と答えた。

「思いを形にするために心を無にする」
中々に面白い事ではないだろうか。
心というのは、あるかどうかわからない。あるかどうかわからないものでは、人間と機械を分ける事は出来ないと述べた。
しかし、人間はそのあるかどうかわからない心を作り出すことができるのだ。しかも、心を無にすることができる上に、無にした心を形にすることができるのだ。サソリの考えを読みそう思った。
機械にも心はあるかもしれないし、ないかもしれない。それはわからない。そんな機械たちは、人間と同じかそれ以上の動きで人間を模倣してしまう。
人間には心があるとされていが、実在するかの証明はできない。しかし、人間は実在するかわからない心を作ることができる。しかも、作り出した心を無にすることもできるのだ。
では、心を無にするとはどういうことなのだろうか。
それはやはり、「夢中になる」ということなのではないだろうか。
あなたにも、好きな事を夢中でやっていたら、何時間も経ってしまっていた、などという経験はないだろうか。
おそらく、その時、あなたの心は無になっていたのだと思う。心が無になってしまっていたから、時間の経過を忘れてしまっていたのだ。
心を無にし、夢中になり、無にした心を形にする。機械は、指示の通りに動いて、精巧な作品や、人間以上のパフォーマンスを叩き出す。しかし、そこに「心を無にする」、「夢中」というものは無いはずだ。なぜなら、指示の通りに動いているだけだからだ。
心を無にし、夢中になり、それを形にする。これが人間と機械の決定的な違いである。いかにも人間らしい結論ではないだろうか。

4. 最後に

会社や上の人間からの指示だけをただ単にこなす。これでは機械と変わらない。そこに夢中というものは無いはずだからだ。あなたは機械になってしまってはいないだろうか。
正直にいうと私は機械になりかけていると思う。そうならないために、目の前のものに夢中になる。そんな人間的な生活を送りたいのだ。
おっと、気がつけばこの文章を書き始めてかなり時間が経っていた。どうやら、私もこの文を書いている間、心が無になっていたようだ。








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