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支援する・されるを超えて

再び、フォーラム福島(映画館)に足を運ぶ。今度は「ラジオ下神白」というドキュメンタリー映画である。

舞台は、いわき市にある県営下神白(しもかじろ)団地。ここは、福島第一原発事故により避難を強いられた富岡町、大熊町、双葉町、浪江町の町民が住む災害公営住宅である。原発事故により、別のまちで暮らすことになった、4つの町の住民たち。全国の災害復興住宅の例に漏れず、ここの入居者も高齢者が中心で、コミュニティの再生・孤独死の防止が最重要課題となっていた。

映画は、コミュニティ支援としてこの下神白団地に入る若者たちにフォーカスが当てられる。中心メンバーであるアサダワタルさんは文化活動家という肩書きで、音楽などを使いながら様々な活動をしているらしい。彼が中心となってはじまったプロジェクトが「ラジオ下神白」である。
これは、コミュニティFMのような実際のラジオではなく、ラジオ番組風CDの作成・配布を行う活動だ。

どういうことかというと、まず下神白団地に入居する住民に思い出の曲についてインタビューを行い、それを録音。録音したインタビューをラジオ番組風にまとめて、思い出の曲とセットにしてCDの形にする。作成したCDは下神白団地の住民に配られ、それを聞いた住民のうち「私も」と思った人は、今度は自分の思い出の曲をリクエストする。それをうけ、再びプロジェクトメンバーはインタビューを行い・・・という活動である。

(現代社会においては、もはや災害公営住宅に限らない話だが)隣人がどういう人か知らない、分からないというのが、コミュニティづくりにおいてネックになる。多くの場合、住民相互間の交流を目的としてイベントが行われるわけだが、この手のイベントはどうしても「イベントに来る人」と「来ない人」が出てきてしまう。次第に「来る人」の間ではコミュニティが出来上がっていくものの、出来上がってしまうが故に今度は「来ない人」がますます入り込みづらくなる・・・という厄介な構図が登場する。

これに対して「ラジオ下神白」プロジェクトの特徴は、住民インタビューを住民全員に配ることで「こういう人がいるんだ」という情報を住民相互間で共有できるようになる。加えて、イベントに来させるのではなく、CDを聞いてもらうという形なので、参入障壁が非常に低い。本当に”よくできた”プロジェクトである。

ただ、この映画は単にプロジェクトが素晴らしいという話では終わらない。スクリーンに映し出されるのは、プロジェクトの枠を越えた若者たちと住民たちとの”緩やかな”交流である。活動を通じて知り合った住民の方の誕生日があれば、メンバーたちがお宅にお邪魔しに行って、誕生日パーティーを一緒に楽しむ。近く高齢者施設に入居するという方には、お別れの挨拶をしに行き、思い出を語らう。そこには、支援者と被支援者という非対称な関係はなく、ただただ緩やかなつながりがある。

それが象徴的に表れているシーンの一つが、カラオケ大会であろう。
コロナ禍前のクリスマスにメンバーたちが、団地の人々を招きカラオケ大会を催した。もちろん、よくあるカラオケ大会とは一線を画している。選曲は、団地の住民の方々のリクエストに応じて決定し、音源はなんとメンバーを中心としてバンドを結成し、生演奏でやるという試みである。

劇中にバンドの練習風景も映し出されているのだが、このバンド演奏の難しさ(であり、本質)が説明されている。すなわち、歌い手の住民の方々は、歌が好きな人たちではあるが、歌が”うまい”人とは限らない。特に高齢者も多いので、イントロが急に終わって歌い始めてしまったり、独特なペースになったり、音程になることが起こりうる。そのときに、それに演奏がいかに合わせられるかが問われているのだ。

この演奏姿勢に、コミュニティ支援の本質が表れている。
このシーンを見ながら多くの人が思い出すのは、NHKのど自慢における演奏だろう。のど自慢の場合、本番である日曜お昼の前に予選が行われているので、よっぽどという出場者はそう多くはないのだが、やはりご高齢の方などは前述のような、自由な歌い方をされるケースがある。そして、本家・のど自慢においても、演奏はその自由な歌いに合わせていく。

ちょうど、映画を見たタイミングで中島岳志の『思いがけず利他』という本を読んでいたのだが、中島はこの本の中で、NHKのど自慢を紹介しながら利他のあり方をこう語る。

バック・ミュージシャンたちは、歌い手を支配しようとしません。リズムが狂っていると、矯正するような演奏をするのではなく、その人のリズムに合わせます。音程がおかしくなってくると、少し音量を下げる。イントロも、早く歌い始めてしまうと、その歌詞の部分を瞬時に追いかけて演奏します。
このような「沿う」伴奏によって、歌い手の個性が引き出され、見ている側が温かい気持ちになります。これこそが利他的な演奏なのだと、私は思います。
利他は時に目立たないものです。しかし、誰かが活躍し、個性が輝いているときには、必ずその輝きを引き出した人がいます。利他において重要なのは、「支配」や「統御」から距離を取りつつ、相手の個性に「沿う」ことで、主体性や潜在能力を引き出すあり方なのではないかと思います。

中島岳志(2021)『思いがけず利他』ミシマ社、p120

この説明は、そのまま下神白団地のカラオケ大会の演奏に当てはまるし、その本質はラジオ下神白の活動そのものにも当てはまる。
部外者である若者たちが団地に「沿う」、そのこと自体が住民の抱える根本的な問題解決につながるとは限らない。ただ、沿い続けることで、笑顔になる住民、相互につながりはじめる住民が出てくる。それはまさに住民の方々が潜在的に持っている主体性や力を引き出す営みである。

おそらく、劇中では映し出されなかった苦労や難しさもたくさんあるだろう。ただ、それでもラジオ下神白に、コミュニティ支援の一つの理想型を見いだせるのは、コミュニティに絡む課題が課題が山積する現代社会を生きる我々にとって一縷の希望となりうるのではないだろうか。

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