見出し画像

あなたの名前で、呼んでもらいたいという願望

『Call me by your name』
(邦題『君の名前で僕を呼んで』)を観た。

本作品は2007年に出版された同題小説を原作に、2017年に映画化された。

〜あらすじ〜
1983年の夏、北イタリアの避暑地にて、
別荘で生活する大学教授一家のもとに、客人の大学院生が訪れ、一家の息子はその青年に心を惹かれてゆく……。

なかなか観るのが難しい映画だった。
というのも、映される風景、植物、食べ物、水……、どれもが見入ってしまうほど綺麗に映されているため、意識しないとストーリーへの集中力が削がれてしまうからだ。

避暑地ということもあってか、いい意味でどこか浮世離れしているような印象を与える美しい映像たちに心を惹かれ続けた2時間だった。

ギリシャ哲学や美術が物語の下敷きになっているのも知識オタクにとっては嬉しいポイント。

ただ、それらを逐一ピックアップして「ここにはこんな参照があって!」とひけらかすのはやめておこう。
それはただの事実確認でしかない。
誰も幸せにならない。

芸術文化に過度な考察は必要ないというのが持論。
そのままを受け取って「なんか良かったね」でいい気がする。

サンプリングされているものが全部分かるから凄いとか、そういう世界線にわれわれは生きていない。

さて、物語のあらすじ紹介や詳しい考察などは他の方に任せることにして、今回は、タイトルにもある「君の名前で僕の名前を呼ぶ」という行為にだけ目を向けられればと思う。

一家の息子であるエリオと大学院生のオリヴァーは、なんだかんだ色々とあって、お互いの気持ちを確認することに成功する。

すると、オリヴァーがベッドの上でエリオにこんな提案をする。

「君の名前で僕を呼んで」
「僕の名前で君を呼ぶ」

相手に向かって自分の名前で呼ぶこのやり取りは、その後2人だけの暗号になっていく。

(備考)
おそらく、知識オタクの方はこのシーンを観て、プラトンの『饗宴』を持ちだしてアンドロギュノスについてのマシンガントークを始める。

「相手から相手の名前で自分を呼ばれる」。
これってどういう感覚なのだろう。

推測だけれども、
相手から相手の名前で呼ばれる分には特に何ともないが、
自分が相手に向かって自分の名前を呼ぶとき、
何か言葉では言い表せない恥ずかしさのようなものが生じる気がする。互いに。

そして、恥ずかしさは、個人の自己嫌悪の強さの度合いに比例すると思う。

愛する対象が自分になるような感覚を体験することになるからだ。

そう、一連の行為で最も重要だと思ったのがこのポイント。
「自分と相手の境界が曖昧になる」。
目の前にいる人物は他人、ただし、名前は自分。

危険な行為だと思う。
互いの精神状態が良好のときに行わないと、とんでもないバッドに入りそう。

普段、自分と他人にどうして境界があるかって考えたら分かると思う。
危ないから、境界があるんだよ。

ある種、リミッターの解除に等しい行為だなと、映画を観たあとに感じた理由が今書いていて分かった。

しかし、相手への想いが強まるあまり、「もはや相手そのものになりたい」という考えが頭に浮かぶこともあるのではないだろうか。

一体化への願望。

これは、上で述べた危険性を頭のどこかで把握しているからこそ生じる感情だと私は考えている。
なぜなら、リスクには快楽と錯覚する物質が含まれているから。

面白いのが、一体化の願望には必ず他人が必要であるということだ。
最初から一人(独り)だったのならば、こんな感情は生じ得ない。

さて、ここで映画のシーンに戻ろう。
オリヴァーがハイデガーの初期ギリシアでの構想について、自身の見解のメモを読み返す。

「潜在的隠蔽は、
自己との関連性においてだけではなく
存在としての他者との関係において重要だ」

ここでの意味を考えるためには映画の内容に踏み込む必要があるのだが、そんなことをしていると倍の文字数が必要となるため、申し訳ないが放棄させていただく。
ぜひご自身でご覧になって、この言葉の意味を考えてもらえればと思う。

要は、「心に秘めることは自分のためだけでなく相手のためにもなる」。

やはり、この映画では他人との関係性を意識させられるシーンが多くあった。

実は邦題が気に入らなくてずっと観ることを控えていた。

『君の名前で僕を呼んで』かぁ。
観終わったあともまだ気に入っていない。
「君」も、「僕」も、「(名前)で」も
どれも気に入らない。

原題『Call me by your name』が良いんだよ。

"me"、"your"の格、"by"のニュアンス、
これは日本語ではどうしても表現できない。

でも、原題をカタカナにされるよりはマシかなぁ…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?