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鳥葬について

話題に外部性をもたらすために、
過去に保存していた写真から気乗りするものをピックアップして、そこから思いついたものをつらつらと書いてみる。フリースタイル。

今回はこちら。
一つのフレームにこんなに鳥って映るんだ。

群れの横断?
それにしては隊列が組まれていない。

構図がいい。
中央の人物の輪郭をなぞるように鳥が配置されている。

パッと思いついた単語を話題の中心に据えてみようと思った。

浮かんだ言葉は「鳥葬」。

全く葬られていないじゃないか。
モノクロだから何か死の香りでも嗅ぎつけた。
どうせそんなところだろうか。

さて、「鳥葬」。
チベット周辺での葬儀の形態の一つ。
他にも四つほどあるらしい。独特。

死体を適当な荒地に持っていき、野生の鳥に食わせてなるべく跡形もないようにする。

高地に住むチベット人にとってはポピュラーな葬り方らしい。へぇ。

興味深いんだよね。
どうやらチベット人にとっては「魂」の有無が大事なようで、それが抜けてしまった器、要は肉体にはそこまで執着がない。抜け殻ぐらいの感覚なのかな。

ゾロアスター教でも鳥葬が選択されたらしい。
というか、むしろチベットの鳥葬の源流っぽい。

「選択された」っていうのも、他の葬り方が彼らにとって適当なものではなかったから。
火を神聖なものとして崇めているゾロアスター教徒にとって、火葬は禁忌。

ゾロアスター教徒もチベット人同様、死体は容れ物程度の感覚。何なら悪霊が住まう場所として認識しているから、大地をも穢す対象になるため土葬も水葬も避けたい。そのため、猛禽類に食わせた。

チベット人は環境に負荷をかけるという理由で火葬や土葬を避けている。確かに、森が豊かなイメージはあまりない。

詳細な理由こそ違えど、似たような経路で鳥葬を選択している。

調べているうちに両者の鳥葬の共通点も見つけた。
「鳥に食わせることで肉体を天に昇らせる」という意図があるらしい。

とても素敵だと思う。
別にそれで肉体が本当に天に行ったかどうかはどうでも良くて、その過程を見届ける精神性が大切、という姿勢が窺える。

伝聞形ばかりで失礼。
当事者ではないもので。
興味本位で調べたときの記憶を頼りに書いた。

私は偏った信仰心をあいにく持ち合わせていないが、宗教的行為・信条にはとても興味がある。
そこにどんな意味が込められているのかに思いを馳せると何だか心地が良くなってくる。

「祈る」行為が特に好きだ。
結果がついてくるか定かでない行為ほど良い。

閑話休題。
「鳥葬」は伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』で知った。

物語の中で、ブータンかどこかからの留学生が主人公たちに鳥葬の存在を教える。

自分たちがどうしても罰を与えたいという犯罪者のことを考え「そんなやつ鳥葬にすればいい」と漏らした人物に対して、留学生は「それは殺す方法ではない」と返す。

これもまた印象的なやり取り。
外部からすると残虐と解釈できる行為も、彼らにとっては高潔な儀式である。

さて、"誰が"残虐と解釈しているのでしょうか。
こんなことを考えていると全てに懐疑を付したくなってきてしまう。

それにしても、『アヒルと鴨のコインロッカー』は終盤の形式が美しく、今でも印象に残っている部分が幾つかある。

タイトルにもある「コインロッカー」の場面は痺れた。伊坂のロック精神が全面に出ている。

私たちも鬼の居ぬ間に洗濯を済ませよう。

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