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#2 就職しないで生きる。東南アジアバックパック旅行で得た仕事感

「#うなぎの10年」というマガジンをつくりました。このマガジンは、うなぎの寝床をはじめて10年、地域文化商社ができるまで、それが生まれる以前の思考と経験、そして、会社を立ち上げて以降の試行錯誤の10年を振り返ってみたいと思います。

#0 振り返るうなぎの10年
#1 「建築応用学」建築的な思考方法が地方においては役に立つ
#2 東南アジア1ヶ月バックパック旅行で得た仕事感

前回は、建築を学んで、その思考が今の仕事につながっていることについて書きました。今回は大学3年生の時に行った東南アジア1ヶ月の旅について振り返ってみようと思います。

大学3年生の夏休み、僕は高校時代の友人である富永潤二(現うなぎの寝床取締役)とタイ・ラオス・ベトナム・カンボジアの旅へと出ました。いわゆるバックパッカー旅行です。この時に日本における仕事観の「当たり前」は僕の中で崩壊しました。いい意味で。

○高校生の時の富永さんと僕の立ち位置
大学3年、二十歳の夏のことです。高校生の時のサッカーの友達であり、高校3年生の時の同級生の富永が「東南アジアでも行こう。」と声をかけてくれていました。僕は英語とかできないし、結構不安症だから、正直割とびびっていました。富永は高校生の時から、何やら英語を勉強していた記憶があります。同じ電車で高校に行っていたのですが、英語の単語帳や英文が書いていある本を読んでいました。

そもそもで言うと、僕は高校にサッカー推薦(B推薦・スポーツ推薦)で入り全く勉強なんぞせず、高校に入ってもサッカー一筋、授業は体力を回復する睡眠時間と捉えていました。対して富永はA推薦と呼ばれる学業の推薦で学校に入ってきており、クラスも特進クラスでした。

僕は高校2年の時も理系の男子クラス、いわゆる勉強ができない人たちがかき集められていたお気楽クラスでした。しかし、2年生の担任の先生が父(町医者をしている)の患者さんで、僕は父の職業である医者を継ぐべきだと思っていたらしく(不可能)、なぜか僕は特に成績も良いわけでもなく、やる気もなかったのに特進クラスに3年生の時に移動させられました(今思えば感謝)。

高校3年生、最初の半年は、相変わらずサッカーばかりで、成績はもちろんビリ。居心地が悪い日々を過ごしていました。しかし、受験がはじまって、勉強をはじめてみると、そのクラスはみんながんばっていて、僕はいい意味で焦ると能力をはっきする方だから、とても集中して取り組めました。うん、よかった。結果的には医者なんて到底届かなかったけど、大学入れてよかった。K先生ありがとうございます。今では本当に感謝してます。元気かな。。。

さて、話を戻すと、そう富永さんは、僕らの学校ではトップクラスに頭もよかったのです。そして、英語を勉強していました。結果的に彼は、僕と東南アジアに行った後、大学4年生の時にスリランカに半年間留学し、インドネシアとかその辺フラフラ回ったり、台湾まわったり、ヨーロッパ何ヶ月か放浪したり、中南米と南米、アメリカ・カナダに1年フラフラと旅をしたりと、世界各国を回っていろんな友達や知り合いをつくって帰ってきました。すごいなーと思いながら今も見ています。出不精で仕事以外で、人とどういう話をしていいかわからない僕には、全く未知な領域です。

そう、そういう彼が誘ってくれて、僕は少し安心して東南アジアへの旅を決めました。

○予定は未定、タイに入って空港雑魚寝、ローカルバスフラフラ。
僕らはタイのバンコクイン、バンコクアウトのチケットを買い、とりあえず宿も取らず、バックパッカーのバイブル「地球の歩き方」だけ買って、バンコクへと飛びました。そして、僕は富永がいてくれたらなんとかなるだろうと、何も準備せず、あとはお任せ!で飛び立ちました。5時間くらいのフライトを終えて現地につくと、なんと深夜でした。こっから市内に出ても宿とれねーだろ!!最初から誤算、でもこういうのが楽しい!というのが旅だよねと思いながら、空港の見送所のようなところで雑魚寝しました。タイはもちろん暑い国なので、僕らは長袖なんか持って行ってるはずもなく、でも空港内はクーラがガンガンついていて、ブルブル鳥肌が立ちながら4-5時間バックパックを枕に寝たように記憶してます。その見送所には、同じような海外のバックパッカーの人たちもゴロゴロと寝ていて、さー旅がはじまるんだぞという感じがしました。

朝6時くらいから行動し始めたように記憶してます。富永が「お金もないし、楽しそうだから、ローカルのバスで行ってみよう」ということで、直通のバスでなく、乗り継ぎながらローカルバスで行くことになりました。カオサン通りというゲストハウスや安宿がたくさんある地域に行きたかったんですが、ローカルバスで何回現地の人に「カオサン!!」といっても伝わらなくて、ガイドブックとかを見せながら、なんとかいろんな人がリレーで「あのバスに乗り替えろ!」とか「そこで降りろ!」とか「お金はいくらだから、あの竹のコイン入れもってる女の人に払いな!」とか(多分、そういうことを言ってるだろうと身振り手振りと想像で読み取る)教えてもらい、なんとか現地についきました。とりあえず、僕は本当に何も調べておらず、富永さんの言われるがままに、あとをついていく、まさに何もできないお子様状態でしたが、楽しい時間でした。

大通りはバックパッカー、ビーサンに短パンの白人やアジア人、様々な人種の方々がたくさんいて、僕には新鮮であり少し怖かったです。「おっきい人たちがたくさんいるー。」みたいな感じです。富永さんは路地裏に入っていき、ある暗い広場にある怪しげなゲストハウスを見て「ここだ」と呟き、ホストを探しに建物の中に入って行きました。当時でいくらくらいだったかな、一泊200-250バーツ(600-800円)くらいだったように記憶しています。そこは日本人を主体に商売をしているゲストハウスらしく、日本の漫画などがたくさん置いてありました。風呂はなし、共同シャワー、共同トイレ、水しかでない。という感じでした。まず宿を確保し僕らは少しホッと安堵しました。

○タイのカオサンで感じる雑多とゆるい仕事感
30日ほどの旅ですが、タイとラオス、ベトナムとカンボジアを回ります。カンボジアのアンコールワットは3-4日とるとして、他は何も決めていなかったことに気づきました。僕は当然タイからカンボジアに入りアンコールワットにいくものだと思い込んでいました。そうだ、僕と富永は回る方向すら話し合っていなかったのです。結果的には左回り、まずラオスに入ることにしようということになり、アンコールワットは最後にとっておくこととなりました。

ラオスに入るビザを取るのに3-4日かかることが判明し、結局バンコクに3泊ほどすることになります。怪しい宿の前のインターネットカフェ(当時は海外対応wifiとか概念がなかったような  )でビザを取ってくれるという、これまた怪しい人にパスポートを預け(今思えば絶対危ない。危ない危ないと思いながら、でもビザ欲しいと預けたように覚えています。実際ちゃんと返ってきたからよかったが)ビザがとれることとなります。

そのビザがとれる3-4日の間、僕らは遺跡や寺院を回ったり、毎日フルーツを食いまくったり、有意義な時間を過ごしました。

タイの街中でも、パチモノのCDを売ってる人たちがいたり、寝ながら布やお土産を売ってるおっちゃんたちがいたり。その人たちは上半身裸でこんがり肌が焼けています。日本には、こんな路上で裸でダラダラしながら接客なんてしていたら怒られるというか完全な不審者です。僕はこの3-4日で仕事に対する価値観が揺さぶられました。

僕は大学1-2年、そして3年生の前半真面目に「建築」というものを思考し、建築家になりたいと思っていました。孤高の建築家安藤忠雄みたいな人に憧れ、自分の足で努力して建築家になりたいと思っていました。しかし、なんだか、それが急にバカらしくなってしまいました。かっこいい建築をたてることが社会のためになるのか?そもそも、この適当に寝ながらものを売ったりしている人はわりとニコニコしていて、楽しそうだし、幸せそうじゃないか?あんまり難しいことを考えずに、自分がやってみたいこととか、意義があると思ったことを実現していくことを日本に戻ったらした方がいいんではないか?最悪、こんな感じでなんとか生きていけるだろう。そういう仕事感にこの数日で変わっていきました。この体感は僕にとって、今でも残っていて、最悪どうにかなるだろうという原点になっています。

○長距離バスで銃を持った人登場、そしてぼったくりバイクタクシー。
話が長くなってしまいました。僕らはそれから、長距離バスで移動を続けました。ラオスでは、バンビエンという町で川下りを2日連続でして、優雅な日々をすごしました。そこからベトナム入りを目指します。

ラオスのビエンチャンから、ベトナムの中部フエという町までの長距離バスは、あまり利用されていないルートだったらしく、僕ら以外はベトナム人、途中で降ろされた飲食店でも、言葉もろくに通じず、なにも食べれずに、ペットボトルの水1-2本で26時間過ごしました。バスは全開に窓をあけ、クラクションを鳴らし続けながらボロボロと音をたてて走ります。サスペンションなんて概念なんてありません。赤土にまみれながら10数時間走ったと思ったら、夜中山の中でバスが止まりました。すると兵隊みたいな人銃を持った人が入ってきて、騒然としましたが、とりあえず固まってじっとしていました。運転手が何やら話しながらお金とかを渡して、なんとかその場は終わりました。これがなんだったのかは未だによくわかりません。「あー死ななくてよかった。」そう思った記憶があります。

そのバスは、人というよりも座席とかにも物資を結構置いてたから、なんか怪しいものを運んでたのかもしれません。ラオスとベトナム国境の山中のイミグレーションは夜明けにならないと開かないようで、バスで寝ることになります。イミグレーションが開いた夜明け、そこから、またごとごとと何時間も走り、そろそろ町かなという手前で、僕ら二人はおもむろにバスから降ろされました。すると、バイクタクシーとトゥクトゥクの野郎供に瞬時に囲まれてその餌食となります。富永も僕も騙されたくないという一心で、とりあえずどっかの方向に歩いていきます。何人かのしつこいバイクタクシーのにいちゃんたちが食い下がってきます。とはいえ、僕らもどこに降ろされたのかもわからず、街中まで連れていってくれと、よくわからない交渉をして、バイクタクシーの荷台に乗ることにしました。結果的には相場よりも高い値段をぼったくられて(といっても、日本円だと数百円とかの話だが)僕らはひどく落ち込み、宿を見つけて入りました。

ひどく疲れて、とりあえず死ぬほど寝ました。そこからシャワーを浴びて、洗濯をすると、髪や体、服から永遠と赤い土が出てきました。26時間分の赤土の埃が永遠とで続けたのです。うん、今ではよい思い出ですが、思い返せば危険だったのかなぁとも思います。

でも、人を騙しながらも貪欲に生き抜く人たちを見ました。もちろん褒められたことではありませんが、貪欲に生きてるなーと思いました。僕も人を騙したりとかはしちゃだめだけど、貪欲には生きようと思いました。ゴトゴトと赤土まみれながら、銃をつきつけながら移動する人たちも、日本はとても安全で優雅な国なんだなと再認識しました。

○アンコールワット10ヶ国語話す、物売りの子供達
アンコールワットでは、子供達が10ヶ国語以上も話ながら、お土産品を売るという光景を目にしました。ニーハオというと、中国語でバーっと返してくる、アンニョハセヨーというと韓国語で、ボンジュールといえばフランス語で、そして日本語なら日本語で、絶対買わないと伝え立ち去ると「ススキノー!おカマー!ケチー!」と言われました。誰だ変な日本語を教えたのはと笑いながら立ち去ったのですが、何度も何度もいろんな各所で彼女たちはやってきます。それが良いのかどうか?とかはわからないのですが、力強く生きる姿はとても印象に残っています。

○ゲストハウスのホストの頭を酔っ払いが超えていく、生活と仕事の一体感。
ベトナムホーチミンのゲストハウスでは、これも路地裏のかなり怪しいゲストハウスだったのですが、ペンシルビルみたいなゲストハウスで、確か6階建くらいでした。1階にホストの家族が住んでいて、普通に雑魚寝とかしてる。その頭を飛び越えながら奥の階段で上に上がって行く。衝撃的な体験でした。こんな商いがあるのか!?という、ここでも僕の仕事感は揺らぎました。生活と仕事というものが一体化している不思議。そして、ゲストがホストの寝てる頭を酔っ払いながら夜中超えていく様。人の価値観というものは、どうにでもなるんだなという感覚をここで得ました。

○旅で多くの仕事感に触れ、僕は就職をしないことを決める。
この1ヶ月の旅で、僕らは本当に多くの価値観に触れて、多くの仕事に出会いました。ここで全部あげることはかないませんが、みんなそれぞれの土地で、それぞれ生まれてきた環境で、それぞれがんばって生きています。いや、がんばってない人ももちろんいますが、なんとなく生きています。そして、その生き方は日本人の僕らからしたら、考えもしていかなった働き方で、なんとなくサバイバルでエキサイティングでエキゾチックであります。

僕はこの旅で、日本で就職するのは辞めようと思いました。もともと僕は家族も親戚も含めて自営業の人ばかりであまり就職するイメージが湧いてなかったのですが、この旅で就職するのは辞めようということははっきり決断できたように思います。その時ははっきりと言葉にするとかはなかったけど、就職という選択肢は、10くらいから0に消えたように思います。多様な価値観に触れて、仕事感が見えてきたのはこの旅の大きな収穫でした。なぜか、わざわざ日本で就職してすごすのは違うなとこの旅で決めたのです。決定的な理由はないのですが、何か就職という選択肢は、僕の思考と行動を削ぐような気がしたからかもしれません。この東南アジアで得た仕事の価値観が今も通じています。

さ、これが大学3年の夏休み。引き続き大学生のころに考えたことを、もう少し思い起こしながら書き記してみようと思います。

つづく


本質的な地域文化の継承を。