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小説『原宿ワンダートリップ』(4/5)

初めて職場で出会ったとき、その娘は若くて初々しくて、とても可愛いなと思った。僕の記憶にずっと残るような笑顔で、緊張しながら。
「おんだ まなみ、です!」
「初めまして、神代洋です。ようこそ弊社へ。よろしくお願いします」
「じんだい ひろしさん、ですね。はいっ、よろしくお願いします!」

そのときの光景を思い出す。今でもその娘のことを僕はよく覚えている。新米アルバイター、穏田真奈美は明るく元気で、それでいて真面目な子だった。仕事の飲み込みは、僕と同じくスローだったけど、ひたむきに仕事を覚えようとする努力に心を打たれた。とてもすてきな子だ。どちらかといえばネクラな僕とは正反対の性格なのに、お互い波長が合って、真奈美は僕を慕ってくれた。一緒に話をしているうちに、相思相愛。いつの間にかプライベートで付き合い始めるようになっていた…。

いま、僕は夜の街を一人でさまよっている。あれから、一週間。真奈美と全く連絡を取ってない。僕は青山を歩く。国道246号線を赤坂方面に行き、神宮外苑にさしかかる。神宮球場の前を通って、向かいの三角公園という小さな公園に沿って歩く。日本青年館の横を渡って、国立競技場の前に出る。隣は明治公園だ。僕は明治公園に入る。広い敷地内を歩き、二回目のデートの時、真奈美に抱きつかれた場所のある方へ向かう。夜の公園にいるのはただ一人、僕だけだ。暗闇の中、感じるのは、ただ孤独だけ…。

僕は真奈美のことを想った。後悔と反省の気持ちが込み上げてきた。いったい僕は、真奈美の何を理解していたのだろう。彼女を、自分を引き立てるための単なる添え物ぐらいにしか思っていなかったのではないか。僕は真奈美を愛したつもりでいたけど、単に自分を真奈美に押しつけていただけだったのではないか。

そのとき、広い公園のただ中に立つ、一本の大きな木が目に入った。その木は街灯に照らされて、夜の闇のなかに浮かび上がり、そよ風に乗って、豊かな枝葉を揺らしていた。さらさらと鳴る音が、まるで言葉のように聞こえる。思わず時間を忘れて眺めた。

僕はそれからとぼとぼ歩き、自宅に帰る。すっかり夜更けだ。明かりをつけると、居間の傍らにある電話機に目が行く。見ると留守電に、一件のメッセージが入っていた。

それは、真奈美からだった。

僕はすぐに受話器を取った。まさか、別れを告げに? 最悪の結末を覚悟しながら、真奈美の声に聴き入る。録音の中で真奈美は「会いたい」と言った。そしてあのとき僕に言ったことの事情を説明したいとも。僕は真奈美の告げた日時と場所に待ち合わせに行く決心をした。

それは原宿駅の隣の代々木駅。僕にはその意味がすぐに分かった。真奈美の姿を認めると、黙って近づいてゆく。真奈美もまた僕に気がつくと、黙って頷く。僕は真奈美の後をついて歩く。向かう先は五階建てのビルの教修場。

主宰者の天野に会う。つまり教祖の男性だ。会ってみると彼は大人しく温厚で知的で、一見、人柄は悪くなかった。明誠けやき新教会は小さな宗教法人だった。教団、教義の内容について解説を聞く。僕が一番心配したのは、怪しい宗教団体ではないかということ。だが、教典らしきテキストを一応見ると、主張は短く無難な性質のもので、この宇宙の解釈に関する、どうということのない自家製の模式図が付いてるだけ。お金にも汚くない様子だ。そして天野は、真奈美とは単に同じ宗教団体に所属しているというだけで、それ以上の関係ではなかった。

さらに天野と真奈美は、任意団体「ライフ・フォロー」の存在を語った。その団体は教会とは直接関係のないものだが、セツルメントと呼ばれる奉仕活動に影響を受けて、「自殺防止プログラム」を行なっている慈善団体だった。それは人間の生命の大切さと個人の尊厳の理念に基づいていた。ライフ・フォローはいわば生活弱者の駆け込み寺で、カルト被害者、DVに遭った女性、シングルマザー、いじめで不登校になった子ども、年金のない高齢者、サラ金で借金してホームレスになりかけのサラリーマンたちが次々に助けを求めて電話してくる。団体は電話相談やカウンセリングや生活援助を無償で提供。だから団体は資金難に。今、こうしたボランティア団体を支えるための寄付が求められている。

僕は、やっと真奈美の真意が分かった。最初は宗教への寄付の要求かと思ったが、そうではなかった。彼女が求めたのは、実際には、宗教団体のけやき教会にではなく、社会の人々の自殺を防止するための慈善団体、ライフ・フォローへの寄付だったのだ。

僕はライフ・フォローのパンフを読み、その約款を読んだ。そして真奈美が望んだとおり、十万円のお金を出すことを決めた。

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