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気が利かなくたっていいじゃない

これは日本の文化というべきか、それとも無意識レベルで求められている、日本という国の集合的無意識とでもいうべきか、「日本人として生まれてこれは誰もが感じることなのでは?」と思うこと。

皆と協調すること。
人を思いやること。
人に対して気を利かすこと。

ざっくり言うと、わたしが小さい頃から無意識レベルで要求されていることとして感じていたことだ。

親から言葉に出して言われた記憶はないが、なぜかそれらを常に求められていると感じながら生きていた。

この感じ方は人によるので、感じない人もいるし、気にしない人もいるだろう。

でも、わたしはこれを幼い頃からひしひしと感じていた。

上述した言葉をもう少し噛み砕いてみると、以下のような感じ。

集団に対し常に輪を乱さずに、そこに合わせていく自分。
自分よりも他人に思いやりを。
常に周囲に目を配って、何かあれば自分が気を利かして、配慮する。

よく考えると、常に外に対してセンサーを張って、そのセンサーを基準にして行動していたように思う。

ちなみにわたしは、心屋仁之助さんの「前者後者」という人間をタイプ別に論じた理論では、「前者」というものに該当するらしい。
(興味があったので、判断できる人に判定してもらいました。)

これについてはわたしは門外漢なので、興味がある方は心屋さんやそのお弟子さんたちのブログを検索してもらえば良いと思う。

ちなみにその「前者」の特徴は、わたしの特徴ともいえる。

例えばその中の一つ、
色々な人との関係性の中で、瞬時に関係性を判断しそこにおいて、この人にはこんな感じ、あの人にはこんな感じといったように、思いが巡ること。
そしてそれに対し、色々気を利かそうとしてしまうこと。
が上げられる。

関係性の中で全体像を捉え、何となく、配慮のしどころがわかってしまうのだ。

ちなみに、現在のわたしを知る人は、この特徴は「全く該当しない」と思っているだろう。
(判定してくれた人も、わたしは「前者ではないと思った。」と言っていました。)

あまり人を気にせず発言したり、変に気を遣ったりしないからだ。

実はこれ、意識して直した「訓練」の賜物である。

いつでも、だれにでも、いつも何かを気にして、何かあった時には相手の求めに応じて動こうとする自分に気づいたとき、「すごく苦しい関係性」だと、いつごろからか思っていた。

自分を殺して、他人を気にして、
「気が利かないと思われないように。」

常に常に、気を張っていた。

しかし、ある時思ったのだ。

相手がわたしを「気が利かない」と思おうが、「相手の要求する水準に達しない気の利かせ方」であろうが、結局は他人が思うこと。

そうなると、人それぞれ何が「気が利く」ことで、何が「気が利かない」ことなのか、その基準が各人異なるから判断が難しい。

相手の想いを全部掬い取って、自分がそれに対応するのは無理だし、そんなことをしていたら自分ばかりが疲弊して、必要以上に苦しむことになる。

正直、人に対してあまり立ち回りのうまくないわたしは、こんな感じで気を遣うだけで疲れ切ってしまっていた。
というか、瞬時に何に配慮すべきか気づいてしまう段階で、疲れてしまっていた。

だからある時、

「もう気が利かないと思われたって良い!」

と開き直り、その関係性における情報を取り入れることを最小限にし、それ以外の情報をシャットアウトするようになった。

それまでは、相手が求めていなくとも、勝手に気を利かしていろいろ先回りしていたからだ。

そこからは随分と、自分のこころが軽くなったように思う。

そして、他にも感じていることがもう一つ。

今まで書いた観点とはまた異なる観点で、この「気が利く、利かない」問題を考えてみると、他の国のそれはよくわからないが、

「言わずとも感じ取れ」的な、“日本人固有”の、人に対する無意識の要求なのでは?とも思っている。

結局、「言わずとも感じ取れ」という考えは、相手に対する勝手な期待であり、「こちらに気を遣え」という、手前勝手なわがままな考え方のようにも感じている。

そういう意味では、日本という国は生きづらい国かもしれない。
常に無言の要求にさらされているからだ。

相手の考えていることや行動について、思いを巡らし想像することは必要なことであり、確かに大切なことだと思っている。

そしてこの考え方は、ある意味、「日本人の美徳」でもあると思う。
これが無ければ、世の中自分勝手な人、協調しない人だらけで、色々な関係を保てなくなるだろう。

だからこそ、「言わずとも感じ取れ」と要求される内容が重要なのだが、そんなことはお構いなしに、とにかくどんな場面でも要求されているようで、それに気疲れしてしまうのだ。

特に敏感なわたしはそう感じる傾向にあるのだが、「他にも同じように感じている人が多くいるのではないか?」とも思っている。

その為、本当に大切なことや重要なことに対しては、わたしも「言わずとも感じ取れ」の部分を感じ取るように留意している。

今は対人援助の仕事なので、「言語だけでなく、言語外で表現されていることを汲み取る」必要があるため、その仕事においてはなおさらだ。

「想像力の欠如」という言葉をよく聞くが、それは本当に大切で重要な場面においては、起こらないようにしたいと思っている。

最後に、少し話題が逸れてしまったかもしれないがわたしが言いたいこと。

「自分を苦しめてまで、人に気を利かす必要はないのだ。」ということ。

「本当の意味で自分を大切にできれば良いな。」と想う、今日この頃である。

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