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桜木花道によろしく③

 胸の高さくらいの壇上に平行するように、天井から吊り下げられた緑の細かい網で、館内が半分に仕切られている。各部活の準備風景を遠くに眺めつつ、舞台に背を向け、いつもの、だだっ広い体育館の右下で簡単な準備体操をする。
 今日は奥の左側を新体操部が使っていて、その隣は卓球部に割り当てられている。
 俺たちの反対側では女子バスケ部がおそろいのTシャツと淡い青のハーフパンツに身を包んでコートに寝転がり、ストレッチを行っている。使える範囲はたかが四分の一。はっきり言って窮屈だけど臨時ではなく、いつものことだ。普通の公立高校では、贅沢にオールコートで練習できる機会はめったにない。それだけではない。緑の網とは別に紺色の低いナイロンフェンスが卓球部との間に置かれているがときおり白い小さな球が迷い込んでくるし、新体操部が演目で使うらしい曲も流れてくる。
 コートのエンドラインに等間隔に並んで、一発の拍手を合図にハーフコートまでダッシュする。次の組が走り出す。拍手が鳴る。 徐々に端からコートの中央に部員が移っていき、最後の一組が走り終える頃には、総勢で二十数人ほどいるから立錐の余地もなくなる。短い片道のダッシュをくりかえしてから往復に距離を伸ばし、次に戻りをバック走に変える。スキップの要領で飛び跳ねて、床を蹴った脚の太ももを胸まで引き寄せる。肩幅より少し広めに股を開き、素早く足踏みする。いろいろなトレーニングをこなしていく。
 二人一組になってジグザグに走り出した相手のコースを、足取りに意識しながら塞いでいく。斜め右に下がりながら正面に入り、時には抑えが甘いとばかりに組んだ相手は止まる素振りも見せないで突進してきたりするようなふざけ合いも交えたりしながら、スライドステップというディフェンスの基本動作を肉体に沁み込ませていく。スピードを上げる。本能に切り替わる。追う足も横走りのように交差させるようになり、逆サイドに切り返す時のバッシュが床に噛みつく音や、強い足音が体育館内に響き渡る。ボールは使わない。まずはバスケに必要となる基礎的な動作の反復練習を、入念におこなっていく。
 このフットワークのメニューは俺が提案し、俺たちの代から導入された。
 遊びの延長線上で活動していた前の代との決別の意思表示みたいなものを含んだつもりだったけれど、強くなれる、上手くなれる、そういう確固たる根拠はどこにもなかった。ネットで調べたり、実際に動画を観たりして選んだり、強い中学から来た後輩に尋ねたりして決めた程度のもので、有力な学校ならどこも採り入れているみたいだから、結局はこの程度の理由でしかなかった。
 楠も止まっている。中学の三年間を弱小校で過ごしたので、彼も練習メニューに関しては明るくないみたいだった。指導者らしい顧問がいるわけでもなく、素人の数学教師が暇な時だけ顔を出し、言う事といえば上下関係の大切さとか礼儀作法くらいなもので、五対五の時に審判を務めるくらいの甲斐性しかなくて、一回戦突破が最高成績という体たらくで俺たちは中学時代を終えていた。
 学生時代にバスケができる期間は長くない。
 うちの高校で言えば、春に開催される大会を最後に三年生は引退する。だから三学年が揃うのはほんの一瞬で、実質的には三年と一年に交流がないままチームは入れ替わり、初夏から次の春までの一年間が自分たちの代となる。
 下の学年のうちから試合に出ることができるごく一握りの選手たち以外には、非常に短い時間だ。
 そして大会が行われる区分が大きくなる。
 中学校では、市大会、東河田大会、県大会、東海大会、全国大会と細分化されていたが、この県の場合、東河田、西河田、張知の三エリアにわけられ、それぞれが地区大会を行うようになる。そこのベスト8に残れば晴れて県大会に出場することができ、次は全国だ。東河田エリアでは八十校くらいのチームが、八枚の切符を目指してしのぎを削る。中学時代には少なかった市外の学校との対戦が練習試合も含めて一際日常的になっていく、活動する世界が広がっていく。
 新キャプテンの選出は存外難航し、誰もが順当だと考えていた楠が頑なに固辞したせいで、サボり癖のある本木に責任感を持たせるという名目のもと無理やり納得させ、渋々彼が就任し、その引きかえに、ゴネた本木に巻き込まれたかたちで副キャプテンを俺が務めるという妥協策で次の体制は落ち着いた。船頭不在の出帆だったのかもしれないが、適任者もいないのだから仕方がない。そして、性格からして役職なんて柄でもないし面倒でしかなかったが、副キャプテンの就任に下心がなかったかといえば嘘になるかもしれない。
「楠もこれでいい?」この言葉を使えば、誰でも黙った。意見がよく通った。
 他にミニバスも兜城中の出身者もいない代では、「楠」の苗字はとても強力で、さらには都合の良い通行手形だったし免罪符でもあった。俺は臆面もなくその言葉をよく用い、付き合いの長さがみんなに伝わるように振る舞って、率先してよく喋りかけていた。部活終わりは必ず一緒に帰るし、いつもつるんで行動していた。情けない腰巾着だった。
 そして、しかし、やはり歪な布陣だった。スタメンは楠に本木に、俺。センターに後輩二人を選んで、新チームは発足した。
 本木がゲームを組み立てる位置に入ったが、攻めたがりの彼の性質には明らかに合っていなくて、実質的にはPG不在のメンバー構成だった。インサイド系の選手が多く、安心してボールを預けられるガードらしいガードはいなかった。不要なのは他の誰でもなく、この俺だったのかもしれない。この決定のちょっと前に何人かが部活を辞めた。このまま続けていてもレギュラーにはなれないからだとか、所詮仲良しグループが牛耳っているからだとかと、又聞きで耳にした。
 別に引き止める義理もない。方針に従えないならば、勝手に出て行けばいいと思った。
 両端に分かれ、一対一の練習をする。ディフェンスを振り切り、九十度とも呼ばれるトップからのパスを受け取ってから勝負が始まる。
 右掌でボールを柔らかく吸い込み、左四十五度の3Pライン手前で、構えた。軸足は左。フェイスガードして球の供給を終始断ったとしても、そんな勝利では満足できない。
 腰を低く落とす。この位置からの一対一は左脚を前に出し、サイドラインに追い込むような企みでディフェンスする。内に切り込まれると、広く、全面的に、様々な方向に展開できてしまうからそれは最低限阻止したいからだ。左掌を高く掲げて、得意のロングシュートを牽制しつつ、速い一歩目を警戒した。フットワークの成果は絶対出ているはずだし、高い意識のもとで足さばきを磨いている。スライドステップ、クロスステップ、その俊敏さ、使い分け、すべてが以前よりも向上しているはずだ。
 守る時には常に足踏みするみたいに細かく動かしておかなければ反応が遅れる、そうやって頭では理解しているのに、改善すべき自分のプレイを俯瞰できているはずなのに、どうしても直せないままでいる。どっしりと構えてしまう。中学の時は違った。教えられていないのに自然とそうするようになっていたが、ある日、学年の中でも面白いとされているチームメイトにからかわれた。「薬内の真似!」忙しなく脚をばたつかせた。
 運悪く、一回戦で当たった兜城中のゾーンプレスには面食らった。得点を決められた後のエンドからの球出しでは、なぜか味方の姿を見つけられず、自分と同じくらいの背格好の対戦相手たちが異様なほど大きく見えてしまい、苦しまぎれのパスを出してしまってカットされまくり、ダブルチームで幾度となく潰された。風格があった。根が張ったように強靭に見えた。脚をあまり動かさず、トーチカのように硬く低く構えているディフェンスは、目指すべき理想に思えた。
 結局、どちらが直接の原因かははっきりしない。
 サイドライン側、俗にいうウィークサイドへ一歩踏み出す。すかさず斜め後ろにずれ、コースを塞いだ。戻りに合わせて、スライドステップで間合いを詰める。
 こんなものはウォーミングアップ程度の、そもそも一切抜き去る気もない、フェイクにもならない、単なる様子見でしかないのはわかっている。3P。前にステップを踏み、左掌を近づけた。再び、ウィークサイドに一歩出る。右に、身体が揺さぶられる。確率の問題だ。だから、本当なら距離を空けたい。抜かれないことを第一義に置いて、3Pは捨てる。諦める。コートの広さに違いはあっても、NBAのトッププレイヤーでも成功率五割には届かないプレイなので、冷静に考えれば採るべきポジションが間違っている。でも勝ちたいのか、負けたくないのか成長を見せたいのか、認めさせたいのか後ろめたさを払拭したいのか、ロングも止められるほど接近し、逆の、ストロングサイドへの深い一歩に身体を反転させて対応する。
 ふわりと宙に浮き、上半身だけが後を追った。
「あの……ヤク、大丈夫?」
 気付くと、戸惑った表情を見上げていた。
 武士の情けみたいにゴールにはそれ以上向かわず、その場でついているドリブルの振動を尻で感じた。騒然が肌を舐める。すわ、殴り合いでも始まったのかという体育館全体の興味や驚愕が一斉に浴びせられた。本木の、岩沼の、こちらサイドにいた全員の顔を盗み見た。心配そうな後輩たちの面持ちは直視できず、愛想笑いで誤魔化した。
「いや、うん。オッケーオッケー。」
「次、いいよ。」と順番を譲る楠の背中を、目で追った。
 いつまでも経っても、俺は、このスピードを手に入れることができない。いつ身に付くのかも見当がつかない。バスケをはじめてからこのかた、防いだという記憶がない。
 止められない。
 根源的な理由が持って産まれた瞬発力なのか鍛錬の賜物なのかミニバスのブランドのおかげなのか知らないが、能力の差が縮まる気配はまったくなかった。全然対応することができず、満足な練習相手も務まらず、同学年でのレギュラーは三人しかいないのだから、それならその三人の実力は拮抗していなければならないはずだしたまには手玉に取るみたいな場面も披露できて当然なはずなのに次元の違いを見せつけられる一方で、それだけに留まらず、練習試合ではイージーなミスを他のメンバーよりも多く犯してしまう。面と向かっては誰も指摘してこないけども、敗因はいつも俺のはずだ。
 唇を噛んだ。カラ元気があまりに滑稽だったらしく噴き出した鼻息がどこかから届くと、言い知れぬ恥ずかしさが滲み出てきた。潔く驚くことも降参する気も起きなくて、ただ虚脱感に包まれた。メッチャクチャ速えな。こうとでも言えば多少は惨めさを拭えたかもしれなかったけれど、この一言は口が裂けても言葉にしたくなかった。
 練習が二対二に移っても三対三に人数が増えても、自分自身の光るところが探し出せない。
 右サイドからのミドルシュートはなぜかずれ、リングの左の内側に当たって真横に飛び、斜め上に跳ね返ったボールにリバウンドが群がった。ゴールに一瞬だけ注目した角張ったエラが、ふりかえった。
「おまえマジで外入らんな。」
 練習の仕上げに行う五対五の時に岩沼が呆れた。
 蔑んだような眼差しに、気分がささくれ立った。
「アホか。さっき決めたやん。」
 他のはほとんど外しとるやん。素っ気なくつぶやいた一言が耳に痛くて仕方がなく、無視をした。
 チーム内での自分自身の役割が見つからず、戦力になっている実感もない。普段は言葉を選び、あまりズケズケと意見してこない男の一言は妙に胸に残る。でも負けてないよ。心の中で、即座に言い訳する。岩沼の中学校とは幾度となく練習試合をしたけれど、一度たりとも負けたためしはなかったし、苦戦した覚えもなかった。いっつもよく戦っていたからおまえの顔を知っていただけで、俺にはうまい選手だったという印象がまるでなかった。それなのに対抗するみたいに激しいディフェンスでへばりついてくるし、身の程も知らずに生意気な口を叩いてくる彼に腹が立った。
 第一、試行錯誤のこの時期に、あれこれ粗探しされても困る。まだ始動したばかりなのだから、様々な可能性を試したいし、まだ小さくまとまる必要はないと思う。
 システムをいろいろ試した挙句、マンツーマンの魅力は否定できなかったがみんなで相談した結果、オーソドックスな2ー3のゾーンに決まった。フリースローライン付近に横並びで右から楠、本木、ゴール手前あたりを俺、初辺、宅間で固める。マンツーマンと比べて体力の消耗が抑えられ、アウトサイドのチェックに若干の脆さを持つが、身長がみんな低くリバウンドに弱いチームには有効なディフェンスだった。そして点を決めたら、2ー2ー1のゾーンプレスを敷く。オールコートで前から積極的に潰しに行って、一気に勝負を決する腹積もりだ。
 とりわけ、楠が、この戦術が好きだ。中学の時も彼の発案で一時期練習させられ、実際に公式戦でも使ってみたが、それでも形にならず途中からやらなくなった過去があった。
 彼がこのプランにこだわる理由は簡単だ。他でもない、愛してやまない咲丘バスケ教室の、伝家の宝刀だったからだ。
 いつまでもミニバスの幻影を追わないでくれよ、と正直思う。
 アイツらと俺らでは土台が違うんだから、おまえが望んでいるような動きなんかできないんだから。中学の時だってミニバスの全国大会で戦ったとんでもなく凄かったという選手のポストプレイを俺に紹介してきて、毎日くどくどとそのシンプルだけど身に付けたら敵にとって驚異的だというプレイを説いてきて、そいつと同じレベルを要求してきた。おまえがマッチアップしてまったく歯が立たなかった選手に俺がなれるとでも本気で思ってんのか。ゴール下一円。後ろにディフェンス。背中で制圧。振り向きざまのシュートを、絶対に落とさない。んな無敵の暴君になれるわけねえだろ、いついかなる時でも相手を背負って前に出て、フォワードからのパスを必ずゴールにねじ込んでくるなんて芸当できるわけねえだろ。だってそのクラブチームは咲丘を倒した後、そのまま勝ち上がって全国制覇を成し遂げちゃったんだろうが。
 求める理想の高さに、ときおり心底うんざりする時がある。
 バカみたいに本木が攻撃を仕掛けて、一人で決めてしまう。スポーツ万能で垂直跳びも楠と遜色がなく、その積極性とか得点能力とかに任せっきりにしてしまう。遠くからなら楠。練習中であってもプレッシャーのかかる試合であろうとも、常にかなりの高確率で3Pを沈める。ゴール下は一年生に任せてある。一八〇ちょっとある初辺は左利きでシュートタッチが抜群に良く、俺とは違ってガタイにも恵まれているので当たりに強い。宅間は柔のタイプだ。身長は一七〇センチ中ごろ程度でもリングを掴めるほどジャンプ力があり、ゴール下で脚を使える。偏らないように、スタイルの棲み分けはできている。
 当の俺はパスを回すだけの道化でしかなく、ボールを他に渡して後は人任せでシュートが決まったとか外したとか得点を重ねられないとか何点獲ったとかからは無縁でいる。
 東河大会まで勝ち残った実績がある、そこそこ強かった中学出身のポイントガードが最近までいたけれど、急に姿を見なくなったと思っていたら知らないうちに辞めていた。聞かなくても、理由はなんとなくわかっている。本来なら彼をスタメンにして、俺が控えにまわったほうが断然チームが機能したんじゃないだろうかと思う。そうすれば四人が攻めに集中できるわけだし、実は楠も本木も、部員みんなが洩れなく、内心ではそうやって考えていたんじゃないだろうかと思う。それだけではなく一年には、兜城出身のフォワードもいる。一個下の代もそれほどの成績を残せずに終わったみたいだけれど、俺なんかよりも格段に訓練されている。
 キープ力が低くて、ドリブルをよくスティールされる。3Pという実弾ははなからなく、ミドルレンジからのジャンプシュートもあまり入らない。確実なのはゴール下のイージーなバンクシュートだけで、でもこんなものは経験者なら外すほうが難しい代物だ。左ドリブルが上達しない。当たり前だ、上手くなるためには必須の地道な基礎練習をずっと昔から怠っているのだから。指先がカサつく、すぐにヒビ割れる。血が滲む。スタメンとか補欠とかの問題ではなくて、そもそもこのスポーツ自体が自分には向いていないのではないのかと悩みもする。楠を捜す。本木の動きに合わせようとする。楠が持てば、本木が仕掛けたなら、その攻撃が終わるまで傍からぼんやりと眺めているだけだ。そしてゴールの喜びを少しだけおすそ分けしてもらって、導かれる結果に後乗りさせていただくだけなのだ。
「ヘイ! ヤク!」
 生半可な吸引力ではなく、この要求に抗うことは難しい。
 左零度の深い位置から勢いよく上がってきた楠にボールを譲った。得意の四十五度で身体をねじらせ反転し、相手から遠い脇のところでボールを構える。股割りするみたいに低く腰を落としたマッチアップを、上からにらみつけた。脚が止まる。黙って見ている。この生理現象は、ポイントゲッターである彼に一対一に専念させたいためなのか、チームのストロングポイントを遺憾なく発揮させるための有効な戦術なのか、本人の要望を忠実に守っているつもりなのか。それとも試合中なのにも関わらず一観客になり下げってしまい、無責任に有能な選手のスーパープレイを愉しもうとしているだけなのか、描かれていく美しい弧を、目で追った。
 本当は理解している。率先して利用し充分な成果を得たのだから、そんなの関係ないだなんていう理屈が通らないのはわかっている。他の誰かに指摘されるまでもなく自分自身で以前から痛切に感じていたし、実際に言葉にされて無能ぶりを糾弾されることを一番恐れていたのだし聞きたくもなかったし実力にふさわしい選出だと居直っていたし振る舞っていたのだけれども、残念ながらそこまで鈍感でもなかった。
 俺がレギュラーを掴めた理由、それは、俺が、楠の小学校からの友達だからだ。

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