プラハ沈没記

 風邪が長引くようにプラハへの沈没が長引いている。ユーレイルの有効期限は二ヵ月なのに、もう残り三週間ほどしかない。
 来る日も来る日も寝て起きれば陽が暮れている。ああ俺は遥々ヨーロッパくんだりまで来て一体何をしているのか。これでは東京でその日暮らしをしているのと変わらない。そんな焦りが益々身を重くして、結局今日も二段ベッドから降りれない。目が覚めては枕元のスマホを開き、ツイッターを覗き、数時間が経ち気付けばまた眠ってしまっている。
 睡眠依存症なのではないか。過眠症というのか。
 何だかちょっと尋常じゃない。
 いっそ診断だけでも受けておけば良かったと思うものの、その「尋常」とやらがそもそも狂っているのやも知れず、結局は食って寝て死ぬしかない。諦めが肝腎だ。と言うものの、諦める為にすら望みが要る。そもそも望みがないのであれば、何を諦めていいのかさえ分からない。そんな曖昧模糊とした日々の中にも俺は小説を書く。
 いや、小説を書けばこそ日々はこれほどまでにその境目を晦まして行き、その混沌の中でこそようやく小説が書けるという共犯関係がもしかしたらそこにはあるのかも知れない。何れにせよ、それは決して自力ではない。そして、今日は良い日だった。
 混沌の中に、自力ではないものが生ったのだ。いくら頭を捻っても、抱えても、思い付かないのならば為す術はない。思い付くかどうかというのは端的に運であり、それは正に神の仕業なのだ。そして、今日、神は降りた。
 俺は「勝った」と思った。これだけエモい科白でラストを締められれば、この小説はそれなりの読み物になる。
 さて、ここからが俺の仕事だ。
 あとはひたすら、この科白が十全に生き、そして死ねるように物語を組み上げればよい。それは頭を使えばできる。しかしここに至るまでが塗炭だ。
 この偶然がいつでも訪れるとは限らない。何故ならそれは偶然だからだ。
 ここまで苦しんで生み出したものが、しかし俺の生活を、暮らしを、肉体的生存を何ら保障しないという事実に気が遠くなる。いっそやめちまうか。
 しかしそれでやめられるならばそもそもこんな馬鹿なことを始めていない。俺は「こうするしかなかった」からこうしているだけであって、何も道楽でやっている訳じゃない。
 道楽でやればいい。そうした気楽さが自分にもあれば良かった。しかし俺は徒労が嫌いだ。骨の髄まで意味に呪われている。これをして何になるのか。こんなものを作ってどうするのか。いつか死ぬ生を今生きる意味とは何なのか。そんなことばかり考える。
 そんなのは幼さの証であり、社会経験を積んで大人になって役割をこなせば自ずと答えは出てくるなぞ宣う輩は死ね、と思う。これは、そんな、貴様ごときの浅慮で解の出るなぞなぞじゃないんだ。そんな話ではない、ということを俺はこの命を賭してでも証明しなくてはならない。売られた喧嘩を買うとはそういうことだ。そして、俺は喧嘩を買わないということが大嫌いなんだ。
 斯様に俺が自意識の責め苦に喘いでいる時に、しかしこの世の根本的な多様性、そもそも多元に開かれている「現実」を謳う人が居る。俺はその言葉を頭では理解できるが、それでもそれは飽くまでも言葉であり、従って頭でしか理解できない。その通りだと思う。けれどそれだけだ。いくらその通りだと思ったところで身体感覚は伴わない。故に救われることはない。ただひたすらに納得し、その納得と何千億光年隔たった俺のオリジナルな地獄を生きるしかない。その上、それは俺のオリジナルな地獄であって俺のオリジナルな地獄ではない。
 恐らく誰もがそうした地獄を生きている筈で、しかし言葉に目を眩まされてその事実が見えない。そういう意味では、言葉はこの地獄に対する唯一の処方箋であるかも知れない。しかし、もしもこの処方箋にさえ耐性が付いてしまった人間は、果たしてどうやって生きれば良いだろうか。つまり、言葉の効かない身体になってしまったら。
 そうなった時は、もういよいよ身体を物理的に破壊していく方向に行くしかないのではないか。例えば音楽を聴く、酒を飲む、薬を服るなどして。

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