The pain we pay

SFメディア「バゴプラ」主催、〈かぐやSFコンテスト〉落選作です。
ご笑覧ください。

一次通過11作はこちらで読めます。読者投票も受け付けているので是非全作面白かった作品に読んで投票してみてください。僕も次回は残りたいです。https://virtualgorillaplus.com/nobel/1st-kaguya-final-11-revealed/

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「君は本当に美しい。私が今までに見てきたどんなものよりも」
 先生はそう言って僕の頭を撫でた。教室に生徒は僕だけだ。仮想空間上に表現された身体の動きは、脳みそに注入されたナノマシンの働きによってさもそれが現実の刺激であるかのように僕に感受される。そして僕は自分がこの世界に祝福されていると感じる。悪くはない。悪いことなんて、この世には一つもない。
「そろそろ授業もおしまいだ。また明日、君に会えるのを楽しみにしているよ」
「はい先生。僕も楽しみにしています。また明日」
 僕はガレアを脱いで帰宅する。階段を下りると、母さんはまだガレアを被っていた。僕は冷蔵庫からパックを取り出して、グラスに注いで一息に飲み干した。食道を通って胃に流れ込んだ牛乳が、そのまま全身の血管に行き渡って身体中を冷やすような錯覚を覚える。僕の脳はそれを錯覚だと知っているけれど、僕の身体はそう感じている。いや、逆かな。僕の脳が、身体が実際には感じていないことを勘違いしているのかも知れない。脳みそは複雑なシステムのくせに、騙すのは案外簡単なものだ。或いは、その複雑さ故に騙され易いのかも知れない。もしもこの世に白か黒かしかなかったら、白でなければそれは黒だし、黒でなければそれは白だ。どこにも思考の余地なんてないし、考える必要から解き放たれた人間は最早騙されることができなくなるだろう。
「お帰り。学校はもう終わったの」
 半透明の乳白色に塗られたグラスを透かして掌を見ていると後ろから声を掛けられた。
「うん。母さんは、仕事?」
「そう、ちょっと休憩。私にもちょうだい」
 僕は棚からグラスをもう一本取り出して牛乳を注いだ。このまま牛乳を注ぎ続ければ溢れた牛乳はテーブルを汚し床に滴り、廊下に流れ玄関を通ってアスファルトを滑り、この世界を満たしてしまうかも知れない。そんな妄想に耽りながらも僕の右手はしっかりグラスが八分目まで白く塗られたところでパックを傾け直し、左手はそのグラスを掴んで母さんに渡していた。
「学校はどう、今日は何を習ったの?」
「ウサギの痛みを習ったよ。僕らはウサギの身体を借りて、人間に叩かれたり、撫でられたりした」
「そう、じゃあもうあなたたちにも〈差別〉は克服されたのね?」
「うん。僕らの誰もがもう差別の愚かさを知っているし、そんなことで自尊心を満たそうだなんて思わないよ」
 そう言うと母さんは、崖から転落した先に同じように転落したばかりの鹿を見付けた遭難者のような笑みを僕に向けた。そう、僕らはもう誰も差別しない。僕らは仮想空間で、白い肌になっては石をぶつけられ、黒い肌になっては銃を突き付けられ、黄色い肌になっては唾を吐かれた。そして今は、ウサギになって人間に踏み潰されたり、カラスに喰われたりしている。そのすべてを僕の脳は、いや僕らの脳は現実として認識した。乳白色のグラス越しに見えた黄色い掌と、白い肌の警察官に銃を突き付けられた僕の黒い頬は、僕の中でどちらも現実だった。
「いい子ね。それじゃお母さん、仕事に戻るから」
 グラスをシンクに置いて母さんは再びガレアを被った。ガレア。僕たちの神。僕たちの世界。古代ギリシャの哲人たちは奴隷に生活上の雑務を押し付けることによって余暇を得、獲得した余暇を自らの精神的活動に充てたらしい。ということは、今や僕らは誰もが哲学者だろうか。僕らは働く為に生きないし、生きる為に働かない。生きる為に生きる。つまり、真理の探究こそが、僕らに課せられた唯一の〈仕事〉なんだ。

「シンギュラリティによってAIが〈人格〉を得るという神話は最早否定された。君も知っての通り、現にシンギュラリティは起こったのだから」
 百年前の小説家が夢想したものではなく、歴史の教科書に記述されたそれは人間のような情動を備えないAIの演算能力の異次元級の増大と、それによる社会資源の分配の徹底的な効率化だった。結果、野菜や人工肉を生産する工場は自らを構成する機械部品そのものを生産し、老朽化すれば取り換え、人間と同じように新陳代謝し、そして人間に食料を提供し続ける。AIにプログラムされた命令は後にも先にも「人間を生かせ」の一言だけだったのだから。AIは「何の為に」とは考えない。その限りにおいて僕らは生存と平和を享受できる。もしもAIが「何の為に?」と自らに問う再帰性を獲得し、一秒でもその手を止めてしまえば、僕らの世界はたちまちに崩壊してしまうだろう。
「人間は何の為に、と問うことができる。というより、問うことしかできない。そこに答えはない。けれどその曖昧さに私たちは耐えられないんだ。何が食べられて何が食べられないか、何が正しくて何が間違っているかを判断せずにはいられない。自分にとって大切なものとそうでないものとを切り分けることによって、この曖昧な世界から〈生きる意味〉を狩り出さねば気が済まない。それが多分、我々が人間であることの証なのだろうね」
 先生はゆっくりとそう言った。放課後の特別授業。教室には僕しかいない。
「尤も、それもシンギュラリティが起こるまでの話だ。もしもシンギュラリティが百年前の夢想家たちが喧しく議論していたように機械が感情を持つという形で実現していたとしたら、我々は相も変らず愛や自由の為に血を流す野蛮人だっただろう」
「先生は」
 僕は口を開いた。
「この世界に満足していますか?」
「難しい質問だね」
 溜め息を吐くようにそう言って続けた。
「と言いたいところだが、生憎と私は満足している。つまり、戦争も差別も、それどころか個人の犯罪さえない世の中を。少しでも他者に危害を加えようとすればAIのネットワークがその〈異常〉を検知し物理的に抑止してくる。膨大な個人データから最適なマッチングが施され、我々は最早繁殖の為の相手を自らの意志で選ぶというコストを支払わずに済み、しかもそれで確かに幸福なのだ。そもそも餓えないのだから、餓えを満たす為に暴力を行使する必要もない」
 教室の窓を見ながら―仮想空間上の窓の〈外〉には何が広がっているのだろう―そう言うと、先生は視線を僕に移した。
「けれど君は、そのことに不満を感じている」
「ええ。だって、この世界には僕が僕として手に入れたものが何もない」
 僕が呟くように言うと、先生の顔が一瞬歪んで見えた。その小さなノイズは、ネットの気紛れのようにも思えた。
「そうか。けれど君は、何故毎回君一人だけが教室に居残りさせられているかを考えたことはないか?」
 僕は首を横に振る。この時間は僕にとって苦痛ではなかった。苦痛でないなら、人は多分そのことを“何故”と問いはしない。
「君が私にとって特別だからだよ。他の子供たちや私と違って、この世界に不満を抱いている。お仕着せの平和なら壊してでも自由を求めようとしている。AIが〈最適化〉した世界で、君はまさにイレギュラーなんだ。私はそうではない。この世界を確かに祝福しているのだからね。だけど、心のどこかで、私も何かをこの手で掴んでみたいと感じているようだ。つまり、自分が人間であることを確かめたいというのかな。その為の痛みが、この世界にはない」
「じゃあ先生は、僕が欲しいんですか?」
「少し違う。正確には、君を通して世界が、君を通した世界が欲しいんだ」
 僕は窓の外を見詰める。このままいつまでも見詰めていれば、そこにいつか穴は開くだろうか?
「さて、そろそろガレアを外して家に帰る時間だ。今日の授業はここまでとしよう」
「先生」
「何だい?」
「僕が、きっといつか先生をこの世界の外へと連れ出します。教えられた答えではなくて、血を流しても、怪我をしても自分で何かを見付けたいです。そしたらそれを先生に見せます」
 先生の顔がまた歪んだ。さっきのはネットの気紛れなんかじゃなくて、やはりどこかに僕と同じように血の通った誰かがいるのだということをそれで知った。
「ああ、その日を楽しみにしているよ。それじゃあ、さようなら」
「さようなら」
 僕はガレアを脱いで部屋に戻った。壁に触れると確かに触覚が刺激されて、僕は今僕が部屋に居ることを知る。さあ、冒険の準備を始めよう。知らない痛みを知りに行こう。殴られたなら殴り返そう。だって僕は、人間なんだから。

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