竿燈

 来年の6月にやっと開館される『あきた芸術劇場』のプレイベントとして、わらび座の俳優を呼んで竿燈祭りをテーマにした即興劇を創るらしい。そんなワークショップは2月27日、演劇やりてえ!と猫のように鳴きあっていた現保育士の友人に背中を押されて応募したのが昨日。彼も来るのだろうか、来てくれたほうが気が楽なのだが……などと頬杖をついている。その一方でまあどうせ来るだろう、我々は飢えているのだからという信頼もある。

 彼は、秋田市で幼少から演劇を続けている猛者であるらしい。大学サークルでの出会いであった、彼は他大学からわざわざここに来たらしい。私はといえば、入学当時は高校演劇とのギャップで頭を悩ませていたが5月後半で当時のリーダーに悪態をつくような相談の末、ある約束を交わしてやっと入団することになる。入団時早速オーディションを受けたが、やはり生意気と思われたのかキャストとしては選ばれなかった(一応前説という本編前の前口上寸劇には選ばれたが、ルックスだけで選ばれたようで癪であった)。そんな中で1年生から本編キャストとして選ばれたのが彼である。他にも2人の同期がキャストに選ばれていた。そのうち1人は本番中舞台裏で緊張のあまり吐くのだがそれは別の話。
 その中でも彼は舞台慣れしている、というのが最初の印象だった。演出らとのコミュニケーションもスムーズで、言われたことにはすぐに適応した、実に資質の高い役者人間であった。予想通り、彼がオーディションに参加する公演は必ず役者に選ばれ、重要な位置を獲得していた。そんな彼は短大だったので、たった2年で居なくなることとなる。彼の卒業公演が、私との初共演だった。
 基本的にお別れした人間とは連絡をとらない人間なのだが、それでもたまに連絡を取り合う関係が続いていた。大半は男の子らしいバカ話である、たまに演劇の話。随分と顔を合わせていないが、きっと狐のような顔で肩をつついて来るのだろう。実に憎らしい顔で、サークル同期の女子人気は高かった。そのうち1人は付き合ったことがあるらしい。一緒に『寝た』が『やる』ことはなかったらしい。それぐらい純粋というか無粋というか、欲があるようで無いというか、なんとも『憎い』奴である。ちなみに男子同期うち1人(緊張で吐いた奴)は長年の遠距離恋愛で浮気をされて嵐が聴けなくなり、私は長年の遠距離恋愛の末永遠の連絡断ちをされベッドにヒビを入れた。その点彼は不気味なほどに美しい生き方をしている、だから狐だ、それも化かそうと思って化かしていない、先天性の狐。ならば私は狸か?明日、そんな私達が再会する。きっとメディアに映し出される、最後の共演の記録となるーー。

 秋田に四年過ごしてみたが、竿燈まつりのことはイマイチよく分かっていない。無数に闇夜に立つ竿燈という造形的に単調な光の塔を、人々は手や頭や体のあちこちにのせてドッコイショードッコイショーと支えている。その技を見て人々は「おおー!」と感心しているが、そもそも人が多すぎて前で見ることができない。ただ一つ、人間の支えを失い、または風に打たれてバランスを失い、その竿燈が崩れ落ちる瞬間、光の塔が私達の下へ降り注ごうとする瞬間が、たまらなく美しいと思った。しかしワイヤーが張られているので群衆には直接落ちてこない、それが実につまらない。第三の壁により、サラウンドリアリティ爆音上映中のただのモニターと化してしまっている。それがどうしても興ざめというか、面白みに欠けてしまう。八戸市のえんぶりの恵比寿様だって柔和な顔して餌っ子を観客にぶん投げてくる。獅子舞なんて噛み付いてくるしなまはげは包丁を振り回してくる。
 日本古来から遺伝子的に受け継がれている、死生観に近いのかもしれない。終わりよければ全て良しなんて都合のいい言葉だ。しかし、闇夜を照らす光は月だけでいいのだ。月になろうとしてなりきれず崩れていく光の塔、そしてきっと来年、再来年と再び立ち上がり、崩れていく。あの光が、ろうそくの光がめらめらとちかちかと燃えてフッと消える瞬間、情熱と涙の残滓、あの瞬間にきっと竿燈を重ねている。

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