こどもがいない理由
子どもについては深く考えたことはなかった。
今思えば、無意識に避けていたのだろう。
8年間、母子家庭だった。小学三年生から中学三年生の夏まで。
中学三年生の時に、母から妊娠したと告白され、その相手と結婚したいと言われた。快諾した。
最初はニコニコ笑う快活な男性だった。
新しいお父さんに、私たちは浮かれて、まとわりついた。
しかし、新しい父になる人はある日、自室に引きこもった。
「昨日の、あなたの言葉に傷ついたんですって」
大人なのに変なの、と思った。
30代前半の若い男のプライドの高さ、自尊心の脆さを、父のいない私は知らなかった。
それから、男は部屋から出てこなくなった。たまに出てくると、弟を殴ったという報告を聞くようになる。母も青あざを作って、食事の用意をしていた。
男は、ドメスティック・バイオレンスを行う男だった。
そこから、どんどん家庭は冷えていった。
飼っていた犬も、男がアレルギーが出るからと、母が貰い手を探して、いなくなった。男は働かず、仕事がないと愚痴っていた。
幸い、夏休みは母の実家で過ごすことが毎年恒例となっていたので、男が来てから一カ月で、男から逃れることができた。
何も考えたく無かったが、祖父母や叔母には再三、逃げておいでと言われ、帰る時もお金を渡された。
家に帰ると、相変らず男は引き籠っていた。
登校日を終えた次の日、母が私たちの部屋までやってきた。
「ごめん、お父さんのところに行ってくれる?もう連絡は入れてるから」
わかった、と私たちは荷造りし、次の日、私たちは父のもとに向かった。
私たち兄弟は、母に、事実上、捨てられた、ということだった。
この半年後、母は子どもを産み、その半年後、胃がんで死んだ。
あとからはどうとでも言える。
DVから子供を守るためだったとか、死期を悟っていたからだとか。
私が思ったのは、私が、結婚を快諾しなければ、妊娠を、子どもを、堕胎させておけば、穏やかでしあわせな母との日常を続けられたかもしれない、ということだった。
最初は、ただの子供嫌いだった。
母が死んだ一年後、叔母に子供が出来たのだが、子どもが出来て、叔母がどんどん病んでいった。
私の目の前で我が子に「お母さん、あなたが死んでくれると幸せなんだけどな」とか、冷蔵庫に入りたいという息子をブチギレて、冷蔵庫に叩きつけている姿を目にした私は、どんどん叔母とは疎遠になった。
それ以降、子どもは苦手だった。
トラウマになっていると気付いたのは市民演劇をやっているときだった。
演目は真夏の夜の夢、ハーミアを演じることになった。ヘレナを演じる女性とは仲が良くて、やり取りを私はとても楽しみにしていた。
だが、ヘレナを演じる女性は妊娠し、降板することを聞かされた。
体が震えることを止められなかった。
その時、はっきりと自覚した。妊娠と子供が、私にとって不幸の象徴になっている、と。
しかし、このトラウマは軽かった。
知り合いが子どもを産んだら、あっさりと治ってしまった。
問題は叔母の方である。
叔母の虐待に近い息子への接し方を目の当たりにしたせいで、子どもを産んでも殺してしまうのではないかという妄想が離れなかった。
事実、夫への暴力は日に日にエスカレートしていたし、暴言も酷かった。
自分が、DVを行う側の人間になっていたのである。
今は漢方のおかげで、夫を殴ることもないし、落ち着いていると思う。
夫は最近変わったことに鈍感で言語化しないのでわからない。
だけど、ストレスコーピングに暴力に依存する自分がいることは確かな事実である。
母は死に、父とは絶縁し、人間関係が下手な自分に、子どもを育てられるわけはない。
だけど、どこかで、子どもは産みたかった。
子どもが欲しいわけではなかった。子どもを産むことで、今まで世話になった人に恩返しができる、と思ったのだ。
大学の時に下宿させてくれた大叔母の存在が大きかった。
孫が生まれなくて、密かに私に期待していることを知っていた。
だから、子どもができないかなと、淡い期待は持っていた。
その淡い期待は、今年、砕かれた。
高コレステロール血症で、薬を飲むことになったからだ。
その薬は副作用で、妊娠できない。
妊娠する為には、医者を探さなければならない。
母や友人があっさりと授かり婚したことを考えると、なんというハードルの高さなのだろう。
同時期に、杉田水脈の「LGBTには生産性がない」が炎上して、笑ってしまった。
ここに、生産性がない、子どもを産めない、働きもしない、バイセクシャルの引きこもりの主婦がいますよ。
三点揃ってしまった自分は、喜劇のようだなぁ、と思った。
これから、生産性が全くない残りの人生、無為に生きていくんだろうな。
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