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Enoの公開日誌 (1) Recherche Relationnelle

みなさんこんばんは。Eno(いの)です。
雨が降ったり暑くなったりと気候が大きく変わって大変ですが、いかがお過ごしですか?私は数日前軽く熱が出たので、栄養ドリンク飲んで一日中寝ていたら治りました。

さて博論の出版準備の方ですが、ひとまず一次審査的な段階を通過いたしました。正確には、所属していた大学院から出版助成を担当する研究院への推薦が決まった、というところです。正式な決定は6月中旬ごろになるそうです。

この第1次審査の審議期間が予定よりも1ヶ月近く遅れ、事務からも音沙汰がなかったので若干不安に感じていましたが、結局のところ良い返事をいただけたので、あとは日程を組んで淡々とこなしていく、ということになりそうです。

知り合いの英語の先生に助成金について報告したら、「次は英訳だね!」と言われました。私も英語での発信は意欲的です。やはり日本にとどまらず国際的にアプローチしていきたいですよね。それだけの大きな問題を扱っているという自負もあります。

というのも、正直に言って、私の取り組んでいる「生態学的アプローチ」は、身体性認知科学やエナクティブ・アプローチ等に比べれば、日本国内ではまだまだメジャーとはいえません。どうしても従来の認知科学のパラダイムでバンバン研究結果を出している方が多い中で、もう少し哲学的に、基礎的な理論をじっくり考えたいというのが本音です。

もちろん生態学的アプローチを応用して、実践的に取り組んでいる研究者の方々は多く、むしろ教育系、スポーツ科学系は盛んであるように見受けられます。

しかし、哲学、そしてベースとなる言語(とは何か)の問題を生態学的に捉えるというのは、さまざまな先生方が取り組んでいるものの、現象学やその他の思想を経由しているため、直接に至ることはかなり難しいことだ感じます。

そのためには、日本だけではなく海外で展開している哲学的考察などを参照して、議論もしつつ進めていきたいと思っています。
その際には、西洋的枠組みのように「自我」や「他者」といった確固たるノードを想定し、それぞれに内的なモデルを想定し原理を説明するというやり方よりも、むしろ東洋的枠組み、つまり一つのシステムやその中のノード同士の関係性(縁起)こそが存在そのものである、というある種仏教的、中観的な捉え方が鍵になるのでは、と考えています。

もちろん私は言語学専門なので、そちらの分野はまだ聞き齧った程度で、これから深めていく必要があります。最近の新実在論のハーマンなどはそれに近いことを言っている気がしますが、これから勉強したいところです。

こんな感じでどんどん興味の幅が広がっていってしまうのですが、ひとまず研究として腰を据えるなら、そうした実在論ひいては言語論を生態学的に転回する(見直す)ことが自分の役目だと思っています。

もちろんこれは、具体事例としてのアイヌ語の研究と無関係ではありません。アイヌの哲学として、自然物から人工物まで、超人間的能力や価値を持つものはkamuyとして認識されます。例えばコップは、人間の代わりに水を蓄えてくれるのでkamuyです。これは日本人的な「神さまコップに宿っている」という発想ではなく、ある意味で人間と非人間(コップ)との相互行為(水を蓄え、かつ人間に飲ませるというアフォーダンス)自体をkamuyという言語で可視化しているのではないか、ということです。
※ただしこれはあくまで私見であり、アイヌの方々自身が実際にそう認識しているわけではない、ということはご了承ください。

アイヌ文化が色濃く残る北海道二風谷出身の関根麻耶さんが、大阪で開かれたとある公演の中で「kamuyは神様というよりも「環境」というニュアンス」と言っていたと思いますが、言い得て妙だと思います。

我々現代人は、このような単純とも思える相互行為を当たり前のこととして忘れています。しかし相互行為にこそ、実在の根源というのがあるのではないか、と考えています。その実在の根源を一から探っていくのは大変な作業ですが、それを言語学というツールを用いてやっていくというのが、私の基本的な研究方針です。

ひとまず、こんなところで今日の日誌を終わります。

それではBonne nuit! 




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