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【試し読み】平日15時、幼なじみの58歳男性ふたりがだべっていて・・・朝倉かすみさん『ドトールにて』

前作『令和枯れすすき』に続いて、今作『ドトールにて』も還暦近い人物のお話です。男性ふたりの何ていうことのない平日午後の会話から、それぞれの記憶が紐解かれていきます。タイトルにあるとおり、おやつとコーヒーを片手にお読みください。

イラスト:millitsuka デザイン:albireo

■著者紹介

朝倉かすみ
1960年北海道生まれ。2003年「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞を、04年「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞を受賞し作家デビュー。09年『田村はまだか』で吉川英治文学新人賞、19年『平場の月』で第32回山本周五郎賞を受賞。他の著書に、『ロコモーション』『静かにしなさい、でないと』『満潮』『にぎやかな落日』など多数。

■あらすじ

母を無事に看取り終えた宗茂が待ち合わせたのは、保育園からの付き合いで、ほぼ同じ時期にこちらは妻を見送ったケン坊。還暦手前のふたりは共に独り身で、平日も自由が利く職に就いている。薄毛治療を始めた理由を聞かせたいケン坊と、そんな彼に、最近引っ越したばかりで、そのアパートで遭遇する不思議な体験を披露したい宗茂。気心の知れた会話でも、語られない秘めた想いがある。周りのお喋りに耳をそばだてたくなる短編小説。

■本文

 待ち合わせはドトール。東口を出てすぐのところ。
 ケン坊の通う薄毛治療クリニックの近くらしい。診療を終えるのがだいたい午後の三時だそうで、そのへんの時間でよろしくですー、とのLINEだった。了解。そう返信した宗茂むねしげがケン坊と会うのは半年ぶりだ。
 
 今年二月、宗茂の母が亡くなった。ケン坊の奥さんが亡くなったのはその翌週。ふたりは双方が喪主をつとめる葬儀にそれぞれ親しい友人として参列した。宗茂の母、ケン坊の奥さん、どちらも長く患っていた。そのせいだろう、どちらの葬儀会場も哀悼の空気一色ではなかった。安堵の気配が紛れていた。
 ことに喪主をつとめたふたりに顕著だった。会葬者とのごく短い会話にさえ、ふたりの顔にはさまざまな表情が展開した。哀、寂、悔、虚。そんな感情が濃淡を変えて巡る合間に青天の明るさが無邪気なほどあざやかに挟み込まれた。
 ふたりとも今年五十八歳だから立派な大人だ。社会人としてはそれなりに世間の事情に通じているし、たとえ未知の案件に出くわしても訳知り顔で一旦引き取ったのち、親しげなのらりくらり話法でお茶をにごす程度のことはできる。喪主が斎場で明るい表情を見せるのは不穏当なことくらい知っていた。
 けれども葬儀はごくこぢんまりしたものだった。しかも地元でいとなまれた。ふたりは生まれてこのかた地元で暮らしている。町域も変わらない。成人してからもしばらく実家住みだった。
 親類や幼少時からの顔なじみしかいない葬儀で、ふたりが長らくの看病から解放された喜び―故人が長らくの苦しみから解放された喜びでもある―をつい覗かせても不思議ではなかった。また、わざわざとがめる人もなかった。むしろ、喜びのほうを粒立てようとする人が多いくらいだった。これであんたも楽になったね、とまでは明言しないが、でも、おおよそそのような、ざっくばらんな慰めの言葉がどちらの喪主の耳にもささやかれた。
 
 東口を出た宗茂は、それが癖の、細長い首を突き出し、腕をほとんど振らない、せかせかした歩き方でドトールを目指し、あっという間に到着した。
斜めがけバッグのベルトをしごくように触ってから、ウィン、と、コントで自動ドアが開くときの擬音を口のなかで言い、入店する。ちょっとウキウキしている。
 レジカウンターの列に並び、店内を見渡してみると、ケン坊が「よっ」というふうに手を挙げた。奥のソファ席だ。お、端っこ。宗茂はマスクの下で口元をほころばせ、軽く手を挙げ応えた。端っこは好きな席だ。そればかりでなく、後ろと横が壁になっているから、隅っこでもある。いいじゃん、いいじゃん、という目をした宗茂に、ケン坊は、な? と目で返した。隅の角にもたれている。ふくふくと肥えているので、熊のぬいぐるみを壁にもたれかけさせたように見える。
 ふふっ。ふたりの頰が同時に緩んだ。ふたりの笑顔は互いのそれを映し合ったようだった。宗茂とケン坊は保育園からの付き合いだ。だからなのだろう、背格好はもとより基本的な性質もちがうのだが、どことなく似た感じがあった。親等でいえば六・五親等くらい。一族大集合の記念写真に収まるかどうかのところ。
「けっこう混んでんだね」
 宗茂はアイスコーヒーをテーブルに置き、腰を下ろした。宗茂の背後はトイレへの通り道だ。行き来する人の迷惑にならないようにとできるかぎり椅子を引く。細長い足でテーブルの一本足をわりあい深く挟むことになる。
「平日の三時なのにさ」
 マスクを外し、グラスにしたストローを口で追いながら続けた。
「こんなもんじゃない?」
 ケン坊はちょっと顎を上げ、店のなかに視線を泳がせた。
「夜んなったら押すな押すなの大盛況だよ。仕事退けたヤツらがどっとくるんだから」
 もーこのへんじゃ寄ると触るとドトールよ、知らんけど、とアイスコーヒーをストローで激しめにかき回し、氷をガチャガチャいわせた。
 ケン坊は最近「知らんけど」で会話を締めるのがブームのようだった。LINEでも多用していた。「それ何?」と宗茂が訊ねたら、「なーんちゃって、みたいなもん」と答えた。「知らんけど」をつけるのも忘れなかった。それと「笑」。
 
 ケン坊は「なーんちゃって」が口癖だった時期もあった。
 中一とかそのあたりの頃だ。ケン坊ほどではないが、宗茂もしばしば口にした。流行はやり言葉だったせいもある。断っておくが宗茂はいち早く流行に乗っかるほうではない。どちらかというと、様子見をしているうちに流行に通り過ぎられるタイプだ。格別の見識や主張があるのではない。ただ勇気がないだけだった。いっせーのせ、で流行に乗っちゃう気恥ずかしさにもじもじする時間が長いだけだ。
「なーんちゃって」は数少ない例外だった。宗茂らの周辺に広まりだして、さのみ間を置かずに使い始めた。
 文末のマルみたいに連発するケン坊の「なーんちゃって」を間近で聞くうちに、噓も冗談も自慢も自虐も嫌味も誉めも本音も建前も無効化されるのを発見した。あるいは無効化したい話し手の意志。いずれにしても後に残るのは、詰め物を抜かれた言葉のガワみたいなものだ。聞き手はひとまず笑っていればいい。
 宗茂にはこれがありがたかった。心中で話し手の意図や真意などなどをあーでもないこーでもないと推量し、いい塩梅の受け答えを当意即妙な感じで繰り出さなくて済む。だいぶストレスフリーだ。
 宗茂はだから最初は聞き手の負担を軽減するつもりで「なーんちゃって」を口にした。一度声に出すと、爆発的に使用頻度が上がるのが流行言葉の不思議なところだ。すぐに「なーんちゃって」を言い慣れて、ある日、おそるおそるちょっとした秘密―「小五んとき、うっかり黒板消しを窓から落とし、それがたまたま校長の頭に当たり、『やっべー』くらいの気持ちでいたんだが、早速信じられないくらい大掛かりな犯人探しが始まって、怖くなって知らんぷりを通したおれ」―をケン坊に打ち明けた。ケン坊はひとしきり腹を抱えて笑ったのち、「時効、時効、なーんちゃって」と宗茂の肩をいくぶん乱暴に叩いた。
 宗茂は悟った。「なーんちゃって」における話し手への効用だ。
 その一、発言はすべて冗談になるのだから、責任を持たなくていい。その二、なので聞き手の反応を(そんなに)気にせずに済む。その三、だからなんでも言うことができ、「すっかり吐きだす」満足がある。その四、たまに聞き手に真意が伝わる場合があり、聞き手がやはり冗談めかして返してくれば、以心伝心というものを実感する。聞き手との友情に深く感じ入るものがある。「なーんちゃって」すごい。かなり重宝。
 なのに、いつしかすたってしまった。気がつくと「え、まだ『なーんちゃって』とか言ってんだ?」みたいな空気になった。以来、宗茂は当たり障りのない発言と相槌の使い手となった。
 
「やー、でも」
 宗茂は話の間を稼いでから、言った。
「やっぱおれたちもさ、こういう時間にプラプラしてると、もう平日が休みの人でもフリーターでも失業者でもなく完全にリタイアしたおじさんだよね」
 近況報告をするための地ならし的な発言だった。だからリタイアにちょっと力を入れた。なんだよ、ムーちゃん、リタイアつったら隠居じゃねーかよ、黄門さまかよ、とかなんとかケン坊がテンポよく混ぜっ返してきたら、いや実はね、とここ二、三年の動きを話そうと思っていた。
 ケン坊の近況はLINEで聞いていた。笑顔に汗の絵文字付きの「なんとかかんとかやってますよ」との返答で、話はケン坊の薄毛治療に流れていった。まだ通いたてだから効果は不明だが、手応えはあるそうで、「もう薄らハゲとは呼ばせない」と息巻いたケン坊は、薄毛治療を決意した理由を話したがった癖にもったいぶって、「続きはドトールで」となったのだった。
「いや、っていうかさー」
 ケン坊は軽やかに宗茂の思惑を無視し、
「おれクラスになるとリタイアっていうよりデザイアーなんだよね」
 と首を横に振り振り小声でサビを歌った。明菜の「DESIRE」だ。正確にいうと中森明菜の「DESIRE―情熱―」。宗茂とケン坊が大学四年のときのレコード大賞受賞曲だ。そう、大学四年。就職する前の年。
 釣られた自覚はなかったが、宗茂も思わず同じく首を横に振り、触りを口ずさんだ。うっかり愉快な心持ちになったものの、胸にはちいさな棘が刺さっていた。棘は一本ではない。つまり、近況報告の機会を潰されたことだけではなかった。なんでまたデザイアー? そんな問いが胸のうちでチクチクした。調子に乗ったケン坊が意味なく口走った語呂合わせかもしれないが虫の知らせのように気になる。察したようにケン坊が種を明かした。
「おれ、実は今晩、デートなんだよね」
「ちゃあっ」
 宗茂が変な驚きの声をあげ、のけぞると、ケン坊はまた「DESIRE」のサビを鼻歌しだした。勢い込んで宗茂が確認する。
「ケン坊! 彼女できたのか?」
「うーん、できたっつーか、なんつーか」
「……って、まさか、おまえ」
 宗茂がごっくり唾を飲み込むと、ケン坊は「あ?」という顔をしてから「そういうことか」と呟くが早いか、プイッとよそを向いた。憤慨しているようすだ。
「そういうんじゃねーよ」
 ドンと床を蹴り、
「いくらムーちゃんだって言っていいことと悪いことがある。親しき仲にも礼儀ありだ」
 太くて短い腕を組み、どんぐりまなこをぎろりと動かし宗茂をにらんだ。
「ごめん」
 宗茂がうつむく。肩をつぼめて猫背になる。ケン坊と今晩のデートの相手とは、奥さんの存命中からの付き合いかと疑ったのだ。
 
 四年前、ケン坊の奥さんはクモ膜下出血で倒れ、植物状態におちいった。そういう場合、多くの人が半年以内に亡くなるらしい。回復する見込みはまずないだろうとケン坊は担当医に聞かされた。
 植物状態は脳死状態とはちがう。脳幹が生きている。栄養補給すれば生きていける。自発呼吸もできる。奇跡が起こる可能性だってあるにはある、と、そういうわけで、明けない夜はないと言い聞かせるような日々がケン坊家に始まった。奥さんが亡くなるまで続いた。
 ケン坊の四年間は看取りではなかった。見守りにはちがいないが、さようならと送るためではなく、おかえりなさいと迎えるためのそれだった。穏やかなペースで、ある意味順調に「その日」に向かう母を見守る宗茂の年月とは似て非なるものだった。こちらは純然たる看取りである。
 だからこそ宗茂は、ケン坊はさぞしんどかったろう、と思うのだ。
 おかえりなさいと迎えたい、さようならと送りたい、ふたつのきもちのあいだでケン坊はずいぶん揺れ動いたことだろう。それは、ああ今日もまだ目を覚まさない、と、ああ今日もまだ死なない、の狭間でもある。深い深い谷あいから、高くそびえるふたつの山のいただきに目を凝らし、どちらに、一心に、取りすがればいいのか分からず、いっそだれかに決めてもらいたいとこいねがったことだって、きっと、何度もあったはずだ。
 ケン坊の奥さんの葬儀でケン坊と顔を合わせたときだった。
 いやはやなんとも、みたいな実体のないやりとりを経て、遅ればせながらLINE交換をしようとなって壁際に移動した。スマホをふるふるしながら宗茂が自身とケン坊のケアラーとしての月日を重ね合わせて振り返り、こう独白した。「長かったんだか、短かったんだか」。そしたらケン坊がこう応じた。「最中の一日の長さに比べりゃびっくりするほど短けーよ」。で、もちろんこう付言したのだった。「知らんけど」。


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