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高校生は原子シミュレーションに夢を見るか、なぜ僕は彼等に夢を見せたいのか、夜半のバーにいるおっさんとの類似性に気づいた話

前回の記事では、語ることが本質的にもつ危うさを確認したうえで、僕が何故か、高校生に向けた原子シミュレーションの入門書、という随分回りくどい形で、語り始めてしまった理由を探していることを紹介した。今回は後半の理由付けについて、もう少し踏み込んで考えてみたい。

ここで(前回の記事をみればわかる通り、僕は一々語ることに対してつける注釈というか予防線が長くなる傾向がある)まず一つ気づいておかなければいけないのは、多くの人、少なくとも僕にとって語ることというのは、これまた少なくとも語らない人に比して、強い承認欲求の表れの一つでもあるという事実だろう。要するにこの手の「語ること」というのは、ある程度において夜半のバーにいる(バーと書いて居酒屋と書かないのはおっさんの世界に足を踏み入れつつある僕ができる、精一杯の抵抗だ)おっさんの愚痴と変わりない性質をもつということだ。おっさんというのは得てして自分自身の個人的な経験を、あたかもそれが世の真理であるかのように、特に通常(2023年現在の日本においては、あくまで)、面と向かって言い返すことの(でき)ない若者に向かって、頼まれてもいないのに、酒の場で教授しようとするものだ(経験として)。さて僕は何の縁か、材料開発を仕事の一つにしていて、その中で原子シミュレーションを(具体的な形態はさておいて)使っている。その魅力を、見知らぬ若者に対して伝えようとしている。なるほど。語ることは語らない人から見れば子供じみている上に、得てして見苦しい。

それでも、語ることが(一歩間違えば)子供じみて見苦しい、という点をあえて明記したのは、それを自覚して語るか否かが、まだ見ぬ聞き手の心にヒットする打率(現実問題として打率を100%とすることは不可能だろう)に少なからぬ寄与を及ぼす、と僕が考えているためだ。そしてもう一つ言えば、僕自身の心を芯でとらえてきたおっさん、おばさん(よく考えたら女性もいらっしゃったのを今思い出した)達の語り口というのは、(当人は気づいていないだろう)子供じみた見苦しさを何歩か超えることに成功していたし、事実としてそうした語り口は、大げさではなく僕の人生(語った時に即して言えば、未来だ)に対して無視できない寄与を及ぼしているのである。

次回は引き続き、魅力的な語り口とは何かについて考察を進めていく。

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