見出し画像

在る証明 ※12/18追記あり

私がここに在ることを誰が証明してくれるだろう。
私は自分に振り回されすぎて、私を信用できない。

転職をして成果が数字として出る仕事に就いてからとても心が安定している。
数字は裏切らないから潔い。
数字を作るのは他人の評価なので、完全に他人軸で動いていると言ってもいいのかもしれない。

現代人は自己顕示欲が強い、とよく言われるが、自分軸だけを信じて生きられるほど甘い世の中ではないだけじゃないかと思う。
自分の判断だけでは不安なのだ。
あなたのメイクは可愛いよ、そのエピソードは面白いよ、あなたのキャリアには価値があるよ、そう沢山の人に肯定されたい。
そうでなければいつか何らかの形で物凄く傷つくんじゃないかと心配でしょうがない。
戦争や異常気象などマクロなものから隣町の性犯罪のような身近でゾッとする出来事まで、私たちの生活は不安に満ち溢れている。
降って湧く災難が多すぎる。
他に足をつけて立つのに必要な自己肯定力が年々上がっている気がする。

梶本時代名義のTwitterアカウントを閉じてみた。
梶本時代という存在は私にとってまさに自己顕示欲の権化である。
他人のウケを貪り続けた13年間、多くの反応に救われる一方で、満たされることがない承認欲求のコップに穴が空いていることに気づいた。

意味がなかったわけではない。
私は確かに人の反応に救われていたのだから。
それでも、一度人にジャッジしてもらおうとむやみに自分を差し出そうとするのをやめてみようと思った。
Twitterに限らず、飲みの席や普段の会話だってそうだ。
こんなことを言ったらどんな反応が返ってくるのかな、と試さなくなった。

人の気持ちを考えず、思ったことを試したくなるのはASDの症状なのかもしれないし、それを我慢できないのはADHDの特性なのかもしれない。
楽しくないし、時には苦しくなるし、引かれても良いから好きにしたいと思うことはあるけど、社会人としては以前よりずっと上手くやれている。

大人になったなー、と思う反面、自分を見失うことも増えた。
私って何なんでしょう。
答えを見出せない生物が批評の場を失い、心が彷徨い始めていた。

地元の本屋に立ち寄ると、エッセイを寄稿した『鬱の本』の在庫が2冊になっていた。
前回来た時残り1冊だったので、他の誰かが買えるようにと自分では買わなかったのだが、在庫が増えたということはあの後売れたのだろう。
この街に来た人が私の文章が載った本を手に取ったこと、それが補充されて面置きされていること。
しばらくその場にとどまって喜びを噛み締めた。
この街の感情の循環の一つになれた気がした。

今度は1冊自分で買った。
1980円した。高いと思った。
それでも買ってくれた人がいるんだ、求められているから並ぶんだ、と考え直すと、元気がでた。
セルフレジに、どうだこのやろう、と啖呵を切りながら、久々に現金で支払いをした。
しっとりと手に馴染む千円札の手触りは、ざらりとした本の感触に変わり、物を買うことの愛おしさを感じた。

私は、確かにここに在る。
この感覚はちゃんと信じられそうだ。






おかげさまで私がエッセイを寄稿した鬱の本がかなり好評で各所でも再入荷されているようです。
1000文字しか書いてないのに嬉しいです。
本当にありがとうございます。
ご興味ある方は是非お手に取ってみてください

BASEでは売り切れていますが、1月には再入荷されるようです。
街の本屋で買ってもらえると私が「うほっ」となります。本屋さんで買われるのが夢だったからです。

そんな訳でよろしくお願いします!!!!
よいお年を!!!!

12/18 追記

増刷が決まったそうです!!!!
早すぎる!!!!!!!!
本当にありがとうございます!!!!
増刷したことで今まで置いてなかった本屋さんにも置かれるかもしれないので、見かけたら可愛がってあげてください!!!!
よろしくお願いします!!!!


いただいたご支援は執筆にかかる費用に使わせていただきます。よろしければ是非!