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ワーク&シュート 第8回

 結局いくら布教し求めてもプロレスファンの仲間を作ることは叶わなかったか。ぼくはアサクラさんとの二枚分をチケットぴあで注文し、リングサイド席を買った。しかしこれでもよかったではないか。二十一年生きてきたなかで一人でも同じ趣味で語り合える人に会えたのだ。多くの人を巻き込もうとして「八百長なんておもろない」「弱いくせに嘘ばっかりつきやがって」などといちいち腹の立つことを言われるよりは、雑音の入らないところで二人心行くまで楽しめればそれで十分だ。チケットを買ったことを電話で伝えたら「おお、悪いな。楽しみやわ」といつもの明るい声を聞かせてくれた。ぼくもこんな声が出せるように就職活動頑張ってみるか。

 そんななか、サークルの会計から「ドイさん長いこと部費滞納してはりますよ。三回生の12月まで払うのが決まりなんでお願いしますね」と部費の取り立ての電話がかかってきた。別に払うのを拒否していたわけではなく、単に部室から足が遠のいていただけで、払えと言われれば払う。もう半年近く参加していないサークルを辞めずに籍を残しているのは他人から見れば不思議かもしれないが、「辞めます」とカザマや彼らに伝えることが何かのギブアップ宣言のようで嫌だったのだ。その意地を張っている期間の代金というのが、ぼくが部費を払う理由である。
 サノの行方を聞きにきたときは一瞬であったが今度はどっぷりと部室に入って椅子に座り、活動記録ノートなどを読んだりした。しばらくそうしていると会計係の二回生女子が現れて、「あ、ドイさんめっちゃ久しぶりやないですか。元気にしてはりましたか」と悪意のない笑顔で言った。ぼくはそんな後輩に軽く手を挙げて挨拶しただけですぐさま未納分だった三千円を渡し「これで完済やな。世話んなったわ、ほな」と立ち上がり鞄を肩にかついだ。
 すると「あ、そうやドイさん、今度クリスマスパーティーをカザマさん主催でやるんですけど、来ません?」と言ってきた。クリスマスパーティー。去年あれだけ声をかけて欲しいという念波を全身のチャクラから発しても全く効果がなかったのに、今年は一切こちらが意識すらしていなかったところへこの言葉。ぼくはどう受け止めていいかわからずにしばらく棒立ちで言葉を失っていた。
「どうします? たまには」と何の悪意も感じられない問いかけをぼくに投げる後輩。反射的にはい、行きますと言いそうになって止める。あの頃切望していたものの、いざその会に参加できるとなったら急に怖ろしくなってきた。実際に会が始まったら二分も経たずに会話についていけずに下を向き、家主のテレビゲームを借りて一人興じている絵が容易に想像できた。
 しかし。あの時の気持ちを思い出したら何かが変わる気がする。ぼくは「えっと、いつかな」と聞いてみた。すると後輩が答えた日が、ちょうどプロレス観戦の日。何という……
「ご、ごめんな。その日もう予定が入ってるわ」
 このうえないほどのもったいなさに後ろ髪引かれる気持ちで部室を去り、帰路につく。しかしせっかくアサクラさんとの約束を振っていいはずがなく、苦渋の決断ではあるがこれは間違っていない。楽しみの度合いで言えばプロレス観戦のほうがはるかに上だ。自分の居場所はそこなのだ。そこでずっとこの先も生きていく。

 そしてプロレスの日があと一週間と迫った頃、アサクラさんから電話がかかってきた。
「ごめん、ほんまごめん。東京で役員面接が入ってもうた。チケット代は今度払うけど、プロレスは行かれへんわ。誰か別の友達誘って」
 自分の心臓に巨大な空洞を穿つかのような一撃が走った。え、えええぇェ!? そんなん行かんでええですやん、仕事なんかやめときなはれ、フリーターでええですやん、むしろ今流行の派遣社員なったらよろしいやん、企業はむしろ派遣のほうを望んでるみたいでっせ、などという言葉が出かかったが飲み込んだ。
「よ……よかったじゃないですか。それって最後の面接なんですよね。あと一歩で決まりやないですか。頑張ってください。うちの大学の低すぎる就職率をこれで上げてもうてくださいよ!」
 実際に思ってることと正反対のことを喋っていると頬を熱い汁が伝っていくのがわかった。アサクラさんに鼻声を悟られないかと思ったが、どうやら大丈夫のようだ。
「ほんま、ごめんな。就職決まったら何かおごるわ。次こそプロレス行こう」

 とうとうぼく一人になってしまった。誰か別の友達を誘えって言われても、アサクラさん一人を確保するのに十八年かかったのであって、別の人をつかまえるのに何十年かかるかわからない。ここ数ヶ月の自分の原動力の源が、風呂の栓を抜かれたように瞬く間に水位を下げていった。もう何を望んでも無駄なのだろうか。せっかくのクリスマスパーティーの誘いも蹴ったというのに。受け身ばかりでは駄目だと自分から行動を起こしてサノやユミカワさんも誘ったというのに。
 プロレスを見に行くこと自体をやめて今からもう一度サークルのクリスマスパーティーに参加をお願いしに行こうと思い、また大学の部室へ足を運んだが既に部室はもぬけの殻で、どうやら学内ライブ本番の最中だったようだ。
 ライブ会場となっている教室に行ってみると数人の女子大生が教室に入りきれなくて外からドアのなかの様子を必死にのぞき込んでいる。ちょっと近寄っただけでも、ど、という笑い声が聞こえてくる。反対側、出演者たちの出入り口には見たこともない後輩たちがサファリルックの探検隊の格好やゴキブリの形をした着ぐるみ姿、ラッパーや僧侶の格好など、面白そうなコントの準備をして待機していた。
 あそこにごく自然に「ぼくもまた寄して」と言って入っていけば、あの充実した空間に浸れる。だがそこは、プロレスのプの字も出すことが許されない。刺激も熱さもない、戦いのないのっぺりと平板な趣味で楽しさを感じる世界。ふと新入生歓迎会のとき、「プロレスって八百長なんやろ」と言ってきたカザマを思い出した。八百長なものか。真剣なんじゃ。お前なんかよりずっと強いねん。ぼくはきびすを返し、大学の門に向かって歩いていった。
 一人で見るプロレスというのは何とも形容しがたい感情を呼び起こされる。いくら長年のプロレスファンの夢であった新日本と全日本の対抗戦が小規模とはいえ実現しているというのに、そこに少なからず興奮している自分もいるというのに、その興奮を表に出すことにためらいが出てしまう。ぼくの周りではみんなそれぞれがこの興奮と感動を思う存分口に出している。各々の友達に対して。一人で来ているぼくには声の持って行き場所がない。ならば選手に送る声援であれば大声を出せるだろう、と思うのだが出ない。大声を出すテンションまで自分の中で高まってこないのだ。恥ずかしさが先にブロックしてくる。せいぜい手を叩く程度のことしかできない。そんなこんなで永田がバックドロップをかけようが川田が連続キックをたたき込もうが、誰も邪魔をする人はいないのに、どこかあえて興奮をセーブしながら見ているという、相反する力が自分のなかで衝突して気色の悪い思いがやたら残った夜だった。

 就職課が開いた模擬面接会。待合い室で順番を待っているときのテンションの上がらなさは異常であった。普段着なれていないスーツ、そしてネクタイで肩が異様に凝っている。今後本格的に就職活動を始めたら、毎週読んでいる週刊ゴングもじっくり読む時間がなくなる。というより仕事のことを考えるようになるとプロレスのことを考える時間が削られてしまう。アサクラさんのように、せっかくチケットを買って面接優先で行けなくなってしまうこともある。そんなことばかり考えてまったく前向きなれないまま名前を呼ばれた。
「あなたは大学生活で、どんなことを一番頑張ってきましたか」と疑似面接官となった就職課の職員に聞かれた。
「あ、サークルで、ライブ……」とぼくは言いかけて止まった。アサクラさんとサノの三人でやっていたのは途中までだったではないか。後は投げ出したも同然、頑張ったと言えない。では何をやったのか。プロレスにすべてを捧げてきました、と言い切るにもこの数年間、何度も落胆と不信を繰り返し、むしろ好きではなかった時間も楽しんでいる時間と同じくらいあったかもしれない。ぼくは一体何をやってきたのか。
「……………………」
 考え込んでいたぼくは今面接を受けているのだということをすっかり忘れ、黙秘権を行使しているかのように無言でただ虚空を見つめて座っていた。何も答えないでいると面接官は「どうしたの?」と心配そうに声をかけてきたがぼくはそれも気にならずに自分の脳内で大きな地殻変動が起こっているのを感じていた。何をやっていたのだ。誰かと一緒にいたいなどと他人に寄りかかることばかり考えて流されまくって、何も成し遂げられなかっただけではないか。ぼくは急に立ち上がると、少し驚いた面接官に向かって
「ありがとうございました。おかげで目が覚めました」
 と一礼して部屋を出ていった。

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