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ワーク&シュート 第1回

 1995年の10・9、東京ドームにおいて、武藤敬司は高田延彦を足四の字固めで破り、新日本プロレスとUWFインターナショナルの団体対抗戦を新日本側の勝利で締めくくった。格闘技スタイルのUWFの選手を古典的なプロレス技でねじ伏せた新日本プロレス。どや、かっこよすぎるやないか。高校一年生のぼくは、以前「プロレスラーなんかほんまの格闘家の前では何もできん」と同級生に言われたことが耳から離れず、ずっといらいらしていたのだ。そいつ、今ごろこの事実に顔面蒼白となっているのではないか。
 小学生の頃、アニメの獣神ライガーが、実在のプロレスラーとして試合をしているというのを聞いて土曜日の夕方に放送されていたワールドプロレスリングを見るようになった。そのうちビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロなどヘビー級のデカくて強い外人レスラーが気に入って、毎週放送を見るようになった。橋本・武藤・蝶野の闘魂三銃士と長州・藤波との世代闘争にも興奮して過去のプロレスに興味を持ち、小六の夏休みにはレンタルビデオを親に借りてもらい過去の新日本プロレスの試合を見て猪木やタイガーマスク、前田日明の試合も見て、二学期に入る頃にはプロレスの歴史を人に語れるほどになった。小学校の卒業文集には「プロレスとぼく」と題していかにプロレスラーが強いか、ぼくがどれだけ憧れているかを書いた。
 学校生活の思い出は特に書くことがなかった。
 中学に入り、部活も幽霊部員を許してくれる将棋部に在籍して授業が終わるとすぐに家に帰った。小遣いが増えたので毎週水曜日にはプロレス雑誌を買うことにしたのだ。専門誌には週刊プロレスと週刊ゴングの二誌があったが、週プロはたまに選手や試合の悪口が書いてあったりして気分が悪くなるので週刊ゴングを購読した。丁寧に一ページずつ読んでいると一週間はあっと言う間だった。レンタルビデオの会員証も入手して、いろんなプロレス団体のビデオも見た。何より、自分の部屋にビデオ付きテレビを置けるようになったのが革命的であった。深夜放送に移ったワールドプロレスリングのほか、別の局で放送していた全日本プロレス中継も見るようになったし、当時スーパーファミコンで発売されたスーパーファイヤープロレスもかなりやりこんだ。
 周囲の状況が気にならなかったわけではない。部活に体育祭に文化祭、修学旅行など、みんなが楽しんでいる様子をいいなあとは思っていた。でもぼくはその人たちと話が合わないのだ。ぼくは彼らが面白いと思うことや興味を持っていることがさっぱりわからなかった。プロ野球なんて同じ格好をした人たちが画面のなかでじっとしているだけだし、Jリーグも画面のほとんどが芝生で見栄えが何とも地味だ。何より彼らは直接戦わない。戦うのに球を投げたりゴールに蹴り入れたりする意味がわからなかった。音楽もプロレスラーの入場曲以外いいとは思えず、好きなミュージシャンもいなかった。唯一、関西人の共通文化であるお笑い番組は見ていたので、そういうときだけ話に参加できた。
 高校に進んでも状況は変わらず、ただただプロレスを見る日々だった。まれにぼくに話しかけてくる人はいた。休み時間に週刊ゴングを広げていたところに、「お前そんなんほんまにおもろいか」と聞いてきたりするのだ。そんなときぼくは長州・天龍戦の凄まじさや鶴田が菊地をしばきまくる壮絶さを力説するのだが「あんなもんインチキやがな。スポーツちゃうで」と笑い、「なあこいつ、まじでプロレスとか信じとるで」と周りに同調を求めた。違うのに。反論しても彼らは聞く耳を持たない。ちゃんとプロレスを見たことがないのだ。確かにプロレスは純然たるスポーツ競技と違ってパフォーマンスの入り込む余地がある。でもプロレスラーが強いことには違いがないし、パフォーマンスを交えながらも強さを競い合っていることも事実なのだ。
 そんななか、ボクシングや空手など格闘技を見ているという同級生からもプロレスについて言われることがあった。
「プロレスでチョップとかラリアットとかやっとうけど、あんなん当たるもんちゃうで。おれ空手習ったことあるからわかるわ。プロレスラーはほんまの格闘家の前では何にもできんで」
 ああこいつは、実戦というものをわかっていない。ぼくは反論した。
「あのな、異種格闘技戦というのがあってな、その昔アントニオ猪木とモハメッド・アリも戦ったことあんねんで。そのときはもちろん猪木もチョップとかせんかったわ。ボクサー相手やったらパンチに付き合わんとプロレスラーの有利な寝技に持ち込む戦い方になるねん。実際、猪木は執拗に寝転がって寝技に誘おうとしてたからね。プロのレスラーやねんから、寝技が本職や。チョップとかラリアットはレスラー同士の戦いやから出てくるだけや」
 ちなみにボクシングはプロレスと同じくリングで戦う競技だがぼくはあまり見なかった。パンチしか使ってはいけないというのがまずつまらないし、手の動きも速すぎて見るのがしんどいし、出てくる選手は皆小さくて弱そうだからだ。
 そして10・9。このぼくの理論は立証された。先ほど言った、UWFインターと新日本プロレスとの対抗戦である。掌底という手を広げて打つパンチと、キックの攻撃を多用するUWFの選手よりも、体が大きくレスリングのできる新日本プロレスの選手が強かった。間違ってなどいなかったのだ。あいつはこの試合を見ていただろうか。早く彼の反応を見てみたかった。
 しかし、その頃にもなるとクラスの中でのグループ分けはほぼ固定化しており、テレビの放送後、そいつと話す機会は休み時間でも教室移動の時間でも全く得られなかった。彼らのグループの雑談のなかでプロレスに関する話題がちょっとでも出れば何とか自然な感じで割り込めるのに、この一大イベントの後でも誰もプロレスには注目せず、ぼくの興奮の持って行く場がなかった。
 感動したことを伝えたくても誰も聞く耳を持ってくれない。それにかつては野球やサッカー、バラエティー番組などの話題で盛り上がっていた連中も、学年が二年、三年になるにつれ、部活に学校行事に恋愛にと、彼らの友達内でしか通じないことばかり話すようになって、さらにぼくには入り込めなくなっていた。
 1997年、三年生になったとき、武藤に破れた高田延彦がヒクソン・グレイシーと戦うというニュースが週刊ゴングに掲載された。何年か前から格闘技界を騒がせていた、世界最強を自称する格闘技、グレイシー柔術。プロレスにとってうっとうしい存在だった。既に最強の看板に傷がついた高田であったが、彼でもプロレスの強さを示すことはできるだろう。寝技が中心の柔術家相手なら、対ボクサーのときとは逆に打撃技で戦えばいいのだ。キックが強い高田ならうってつけだ。
 しかし10・11、高田はヒクソンに腕ひしぎ十字固めであっさり負けてしまった。
 高田が戦ったのはプロレス団体主催の大会ではなく、ヴァーリ・トゥード、ポルトガル語で「何でもあり」を意味する喧嘩ルールの「PRIDE」という大会。ボクサーからレスラー、柔道家、空手家、力士から街の喧嘩屋まであらゆる格闘家がKOかギブアップのみで決着する、他流試合のリングである。プロレスだって何でもありの戦いだ、ロープエスケープがないこと、三カウントフォールで決着しないことくらいでルールにほとんど違いはないはずだった。新日本の武藤に負けたとはいえまだまだコンディションも衰えていない高田だったが、グレイシー柔術とかいう胡散臭い男に為す術なく敗北した。これは他のプロレスラーの誰かがリベンジしなければプロレスが強いというイメージに傷がつく。という話を誰にもできないまま高校を卒業した。
 卒業式の日は教室で挨拶を終えて解散したあともみんなで残って名残惜しく喋ったりしているものだがぼくは即家路についた。何も話すことがない。語り合う思い出がない。プロレスばかり見ていれば確かに楽しいのだが、かといって孤独に耐えられるほどぼくは芯の強い人間でもない。
 そう、ぼくは話相手に飢えてくるようになっていた。大学に入ったら、プロレスの話ができる友達を何としても作らなければと思っていた。

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