見出し画像

これがいわゆる五月病/それを受けいれる

 今日から5月。新しい街に住み始め、新しい仕事をはじめて1ヶ月になる。

 先週はちょっぴり元気がなかった。妹ロス(死んでない、帰っただけ)もあったし、仕事の進め方でヘマをして遠回しに怒られたりもしていた。ダイレクトお叱りのほうがまだましだったので、その点でも凹んだ。まあでも新人だししゃあないと開き直ってケロッとしてはいたけれど、胃の中のザリザリした感覚は残ってしまって、銭湯もあまり効果がなかった。

 起床してスマートフォンの5月1日という日付をみるなり、ああこれはもしかしてこれは五月病なのでは、と思い至る。思えば今年の年明けくらいからずっとエネルギーが高い位置にあって、難しい局面を切り抜ける日々が続いていた。ようやく腰も落ち着いて、不安を持てるだけの余裕が出てきたのかも。

 それなら仕方ないと思って出社。その日一日の業務予定を共有する朝のメールで、同僚が「この時期はいつも五月病になってしまうので気をつけたい」と書いていたのでなんか救われる。大人になると、元気な日も、元気がない日も、同じ顔をして仕事をせざるを得ない。でも、うちのチームではその日の体調を共有するシステムが設けてあり、「良好」「元気」「普通」「ぼちぼち」「まあまあ」「不調(定時で帰ります)」とかみんな毎日違うことを書いていて、ゆらぎがあるのは生き物として当然のことなんだと思える。しかもこのシステムが、単なるのほほんとしたやさしさから来ているものではなくて、反省や教訓から来ているものである、というのもいいなと思う。

 五月病について話していたら「5月は調子が悪くなるのがわかっているから、計画的に有給を入れておいて休む」、とか、「行きたくないと思ったら休む、くらいでもよい」という話になったので、そのへんの感覚はやっぱりケアに携わる専門部署だけあるなあ、という感じがした。決して暇ではなくきっちり忙しいのだが、その中においてもある程度はそういう優先順位を取ろうとする、という点がすごい。

 それと今日はチームに新人がやってきて、早速私も教える立場になった。ああ、そういう感じだったなあ、と4月1日の自分をありありと思い出しながら話す。一ヶ月前はまじで何を言っているかわからなかった会議も、今日は単語が聞き取れるくらいにはなっていて、外国語の習得みたいだと思った。

 グーグルマップを見ずに歩けるエリアも出てきたし、朝の地下鉄に乗るコツもわかってきた。人が溢れ返るオフィス街の昼休みに、ひとりでタイ料理だって食べに行ける。まだまだ何にもできないなあ、と感じたりもしたが、何にも、ってことはない。変化はある、それに気づいたのもよかった。

 帰り道、箇条書きでこの日記の下書きをスマートフォンに打ち込みながら、わりと身体がらくになっていることに気づいた。日記を書くことのよさは、こういう点検になるところかも。連休後半は岡山に帰る(「岡山に帰る、もうそっちに帰る、っていう感じなんだ」と言われるけど、帰るがしっくり)ことにしたので、戻ってきたらやっぱり東京はいやだ!と五月病が本格発動したりするかもしれないけれど、それはそれでしょうがない。五月病にならないようにするのではなくて、五月病になった自分を想像して受けいれてみたりする。そういう感じでどうだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?