見出し画像

ふつうの相談/ファースト愚痴りタイム

何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。

中井久夫『治療文化論』


 日曜日に買った本、東畑開人『ふつうの相談』を読み進めている。表紙を開けてタイトルから一枚目にある、主題に関連した引用句(これをエピグラフと呼ぶらしい、今回あとがきを読んではじめて知った)に中井久夫のこの一節があって、買うことがほぼ決まってしまった一冊だ。

 相談って、別に専門家の専売特許じゃなくて(例えばカウンセリングルームみたいなところで行われるものだけでなくて)、職場での立ち話とか、友人との秘密の会議とか、そういうあらゆるところにあるよね、というのが「ふつうの相談」ということらしい。

 私が相談を受けるときの立場は、キャリアコンサルタントの有資格者としてはひよっこ専門家、うつ状態とかヤングケアラーっぽいもの経験者、予期せぬ離職者等としてはピアサポーター的である。でも、そういうことだけじゃなくて、単に友達として話を聞く(しかも相談本編と関係ない話を含め)みたいなことでしかできない何かがあるんじゃないかと常々思っていたので、専門家がそこに専門知識を用いつつ言及してくれていることに感動した。

 こういう、とりあえず経験が先立っていて仮説を持っているものに対して、あとから知識がやってきて客観性や普遍性が担保できると、気持ちがいい。まず学習→実践っていう方向で考えがちだけど、今の実感はむしろ逆であることも多い。下道さんも、制作に関して似たようなことを言っていた気がする。まずある程度手を動かしてから、途中まで行ったら徹底的にリサーチする。そういうやり方の方が、誰も行ってない方角で、より遠くに到達できるんだと思う。

 新しい職場で働き始めて一週間だが、先輩の愚痴を聞くことに成功した。この人が「ちょっと話してもいい?」と言って椅子に座る一瞬を作れた、「ふつうの相談」が受けられたということだけでも、自分が入社した意味あったな、という気持ちになれた。愚痴をこぼすって信用の証だと思うから、最初の愚痴って結構嬉しいものなのかもしれない。

 週末を挟んだら、職場周りの桜はすっかり散り始めになっていて驚いた。ちょっと遠回りして桜を見ながら帰る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?