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自分を捨てていく作業。

わたしは普段、あまりなにも考えていません。

や、明日はこのタスクやろう、時間が余ったらあれもやろう、それから映画も見なきゃ、あ、チョコレート食べたい。ねむい。とか、そういう事は思います。俗と欲とともに。
考えてない、というのは例えばこう、「思う、とは」「書く、とは」「人間とは」とか、そういう体系だったことを考えることがあまり無いんです。自分の考えをまとめないというか。

降り積もった落ち葉の海を、散らかして歩くかのような日常。

だから時々、友達や同僚と喋っていて「僕は以前から、これについてはこう考えていて」みたいなことを聞くと(すげえ!)(やべえ!)みたいに内心、尊敬と焦りみたいなので冷や汗状態になったりします。

って、なったそばから、(はー、ここの生姜焼き、本当においしい〜)とかなってたり。


わたしは、犬のように生きる。


とか、格好つけてる場合じゃないです。犬を馬鹿にしてるわけでもないんです。むしろ、犬の方が一貫性あるかもしれません。
少なくともピュア。

そんな獣的一面を持つ者ですが、友人と話していると、自分の理解や対応や意見ももちろん聞かれたりするわけで、その時あらためてちゃんと考えるわけです。
聞いてくれてるわけだし。なにもまとめて考えてなくったって、なんかあるだろ。みたいな勢いで。伝えるために自分の中をばーっと走って拾い集めて、眺めて整理して、で、勢いで話す。

…うわ、きみ、未だにそんなにいい加減に生きてたのかい。
と、これを読んだ友人達や、まだ見知らぬ方々が引いてないことを今ちょっとだけ祈りましたが、勢いなので続けるのですが。

だいたい勢いですが、そんな中でも時々「そうだったんだ」と妙に腑に落ちることがあります。最近あったのが「書いたものについて」の話。

わたしは基本、書き上がったフィクションについて「恥ずかしい」とか思うことがありません。
キャラのセリフとか見て「ふっ」と笑ったり(自分で書いたのに…)、
構成を眺めて「悪くない」とか思ったり(自分で書いたのに…)。

ナルシストとかではないんです(ちょっとボリューム大きめので言ってます)。わたしは仕事柄、わりと脊髄反射的に書く方なので、書いたら読み返して「恥ずかしい」と思ったところを直し、読んでは直し、なので、最終的に自分としては「恥ずかしさは感じない」ものになるわけです。

と、そこまで聞き出してくれた友達は最後に
「そっか、客観化していってるんだね」と感想を言ってくれました。

客観化…そうなのか…

と、貰った葉っぱをくるくるしながら帰って眠った翌朝、ベッドに積もった落ち葉を眺めて「そうか、わたしは自分を捨てる作業をしているのか」と、腑に落ちます。

自分の考えること、自分そのものを出すこと、などを表側から捨てて捨てて捨て続けて最後に「自分からこんなものが出来た/作れた」となるところに、なんか価値を感じる。

そうだったのかー。

ゲームシナリオは大体、自分そのものが外側に出にくい出自で、構造です。それでも今考えてみればそうやって、どんどん捨てて削って書いてきた気もします。(小説などになると、捨てきることにしくってる場合も多々ありますが)
けれど、そうして捨て切ったはずなのに、表面はつるつるに削れてるはずなのに、むしろわたしらしいテキスト、と人は言う。

捨てたって捨てたって、なにかは残ってしまう。
なんだかそこに怪しい気配が滲むぐらいが、多分ちょうどいい。のかも。

うーん、たしかにー。

と、まあ、そんな感じで日々犬のように新しく世界と対峙しております。
未だに…
そしていずれまた犬のように「わはっ!違ったかも!」とか言ってる可能性もなくはないのですが…毛玉は勢いで転がっていきます。

けれど、生姜焼きは今日もおいしいのです。かしこ。




おかしかっていいですか。ありがとうございます。