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人生初めての学会に行ってきました

こんにちは、まえだです。

今日、人生初めての学会に行ってきました。
色々と学ぶことが出来たので、いつか見返せるように、ここに書き記しておきます。

私が学会に行った理由は発表者としてではなく、アルバイトとしてです。
「アルバイトとして学会来ない?」と誘われ、
一度行ってみたかった私は二つ返事で快諾しました。

とても大きな会場ではなく、小さな部屋で行われる、
身内が集まった研究報告会のようなものでした。
ですが、他人の研究内容をまじまじと聞く体験は初めてで、
とても面白かったです。

私が学んだことは2つあります。
本当はもっとありますが、全て覚えていられるほど高スペックな私ではありません。
なので、あえて絞って書くことにします。

1つ目は自分の立ち場を明確にすることです。
研究とは、研究対象があり、何かしらの問題や課題があり、
それについて問いを立てて検証をする営みだと思っています。

この行為において、自分は何者であるかを常に明確にして、
これを忘れずに研究を行うことが重要だと思いました。

私は開発途上国を扱うため、この重要性は際立ちます。
自分は今何者として研究対象をどんなレンズで見ようとしているのか。

これを考えることなく研究をすることは、
一種の権力を伴った暴力だと思います。

学問とは、往々にして強者による理論と実践の積み重ねです。
私が学んでいる開発学も、
西欧社会=発展、それ以外=未発展として構造化された、
いわば西欧社会によって振られた暴力が歴史にあると私は思います。

だからこそ、自分の立場を明確にすることが重要なのです。
自覚した上で、権力を無意識に振りかざさず、研究対象に敬意を持って研究を行うことが重要なのです。

2つ目は、多民族社会のあり方への考え方です。
ある研究者の発表で、多民族社会のあり方について言及された方がいました。
日本のように単一民族国家で生まれ育った私は、
どうしても多民族社会がどのように実践されているのか、想像することしかできません。

生まれた場所が異なり、異なる方言を話していても、
根底には”日本”というナショナルアイデンティティがあり、
”日本語”を話す”日本人”というアイデンティティがあります。

自己認識と社会からの認識にずれがなく、私は私が日本人であることに疑いを持ったことはありません。

ですが、多民族社会では必ずしもこうとは限りません。
国家や政府が「われわれは〇〇人による国家である」と言っても、
それと異なる民族の人は腑に落ちないでしょう。

自己認識と社会からの認識にずれが生じ、場合によっては争いにさえ発展します。

17世紀に台頭した「民族国家」の概念以来、国家は1つの民族が構成するものと認識されてきました。
ですが、実際はこの通りではありません。
複数の民族が構成する国は多く存在します。

これもまた、強者による理論なのです。

そんな多民族社会において、人々、あるいは政府はどのように生活を営み、政策を実践すれば良いのか。
算数のように答えがあるわけではありません。
それでも、私達人類はこの問題から目を逸らすわけにはいかないのです。

私も、未熟な1人の研究者として、平和へと貢献できたらと思います。

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