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片付けないけど、掃除する。

人生のなかで、ひたすら掃除をした時期があった。

生きてきたなかでいちばん体力がなくて、ずっと下がらない微熱と炎症のお陰で頭は比較的朦朧としていて、だけど、なんとか起きあがることはできて、だけどさまざまな理由から他にはなんにもできないような時期に、毎日、ひたすら掃除をしていた。

毎日、家中のホコリをとって、手で水拭きし、水垢をとって、ファブリックを洗い、当時、自分は当たることができなくなっていた、お日様の光に当てる。

情報流布のためにわが家を訪れる様々な紙類や、外からの物資を届けては役割をなくすダンボールは、その都度縛って資源回収に出せるように準備して、窓拭きとカーテン洗いは比較的重労働だったので、毎日はやらなかったけど、とにかく、"溜めない"暮らしを、あの頃のわたしは、黙々と遂行していた。

最初の頃は、綺麗にするために躍起になって、薬剤を使ってでも、美しく仕上げようとしていたと思う。

だけど、わたしのからだがどんなに"自然派♡"と謳われていた薬剤も拒絶するので、最終的には、シンプルな水と風と、直線と曲線を描く人間の力で、ひたすら掃除をし続けた。

からだはちっとも治らなかったけど、そのうちに、氣力が増して、動けるわたしになっていった。

そうするうちに、だんだんと掃除をしても時間が余るようになってきたので、今度はごはんをつくり、物語を書き、ピアノを弾き始めた。

ごはんと、音と、物語。

わたしから溢れたそれを、いちばん最初に受け取ってくれたみんなから言われた共通のことは、「癒される」、という言葉。

笑っても、ごはんをつくっても、音を奏でても、物語を紡いでも、お腹の真ん中に猫パンチを繰り出してみても、時には毒を吐いたり、袈裟斬りしてみたり、すごく怖がられてみても、何をしていても、わたしはなぜか、最終的には「癒される」って言われる。

なぜなのかは知らない。

だけど、なんとなく、それがわたしの創造の種なんだろうと感じた。

癒される=全ての癒しはすでに成されている

という音だ。

癒しという音の、はじまりから終わりまで。

その音が生まれて、生きて、生ききって、そうしてひとつの役目を終えて、なにものでもない、ただの純粋な音に、還るまで。

毎日ひたすら、黙々と掃除を続けていたら、いつのまにかわたしのなかの創造の種はひらいていた^ ^

それでね、創造の種については、また別の機会に書くかもしれないし、書かないかもしれないのだけど、そんな昔の経験を思い出しながら、掃除と破壊と創造について、ふと今、真剣に考えていたのです。

そうしたら、掃除って、人間のための生きるみちなんだとわかった。

自然界のままに生きる、植物や動物たちをずっと観察していて、ある日、彼らと人間のいちばん大きな違いは、"意図して何かを留めるかどうか"なのだと、そんな風に理解した。

留めよう、と決めた時、この世界には形が生まれる。

それを認知できる人がいるかわからないけれど、例えば、無形有象のものさえ、そうだ。

形が崩れて、無に還ってゆく、というかたを、その人は、自分の世界に描きだし、その"概念"を、留める。

そうやって、本来は流れが在るだけであり、確かなように見えるものの全ては幻想だ、ときづいても、人間は留めた世界を生き続けて、サラサラと流れてゆく創造の粒子を留めることを続けるから、そこには、いつしか時間が生まれて、その時のなかだけに存在できる、仮の"カタチ"が誕生する。

そしてその仮の"カタチ"に起こる様々を、人間は眺めて生きるのだけど、生きているうちにきっと、忘れるの^ ^

心地よさとは、どんなことなのか。
本当とは、なんなのか。

真実とは、どこにあるのか。

忘れて、求めて、壊したりつくったり、忙しくして、それでもわからなくて、思い出せないって、時々子供のように泣く。

それでね、そんな時のために、掃除はあるの♪

物でごちゃごちゃになった場所に暮らす時、もし、片付けたい、って思ったなら、最初にすることは、片付けじゃなくて、掃除なの。

そのままを、丁寧に、掃除する。

ごちゃごちゃに見えるものの埃を払い、見えない床を水吹きし、荒地のようになった空間に、新しい風を通して、丁寧に慈しむの。

最初は、なにも捨てなくていいの。

ただ、丁寧に、毎日、その空間を掃除してあげたらいいの。

ごちゃごちゃなら、ごちゃごちゃのまま。

何もない部屋なら、何もない部屋のまま。

そうしたらね、だんだんと、その部屋が生きてくる。

忘れていたことが息を吹き返して、自分の人生に、かえってくる。

無理に捨てなくていいの。

丁寧に慈しみ、お掃除したものたちを手放す時は、要らないゴミを棄てるきもちじゃなくて、愛したものを、次の場所へ送りだすような、そんな、大切なひとを送り出す時の葬送のようなきもちで、その物との繋がりを感謝して殺して、そうして本来の循環へと、やさしく手を放せるの。

物が、カタチとしての役目を終えるとは、そういうことなの^ ^

そうしたらね、世界に、もうひとつも、ゴミは、存在しなくなるんだよ。

だって、全ては資源だったのだから。

地球が与えてくれた、その大地と、空と、風と、水と、宇宙の火で与えてくれた、わたしたちへの、贈り物だったのだから。

世界にゴミなんて、本当はひとつも存在しないの。

掃除を本当に丁寧にすると、そのことにきがつくんだよ。

物にいっぱい囲まれて、きもちが塞いで動けないのなら、それが、今のあなたなの。

何も変えなくていいの。

全部を味わい、観るのが、あなたを生きる、ということなの。

無理に変えることは、破壊であって、それは、人間の仕事じゃないの。

人間の仕事は、破壊じゃなくて、掃除の方^ ^

嫌だな、と思い込んでいたものも、本当に丁寧に掃除して、お世話してあげると、本当の役割を教えてくれるようになる。

全てが全うされたら、ゴミは本当に、なくなるんだよ^ ^

それが本当の"支配"という言葉の意味だと、わたしは思いました。

自分の下に、言うことを聞く奴隷をつくるのが、支配じゃないの。

暴力と破壊で脅すのが、支配じゃないの。

無理矢理なんとかするのは、何にたいしたのだとしても、本物の破壊でも創造でもなくて、ただのレイプなの。

そんなものでは、わたしたちは、奥底までは、支配されないようにできてるの。

今、何かに支配されている人がもしいたら、自分が支配してきたものを、丁寧に掃除してみたらいいな、と思います。

片付けないで、丁寧に掃除するだけ♪

様々湧き上がる感情を観ながら、掃除を続け、それを写し込むことなく、その空間に、自然が還ってくるのを、丁寧に、観るだけ。

それは、愛し、慈しみ、自分のなかのバランスを取り戻す、誰にでもできる魔法です。

人間が生きるためのいちばん基本的な智慧は、毎日の営む暮らしのなかに、丁寧に編まれて、カタチとなり、音なき音で、伝承されてた。

それは時代を超え、場所を超え、世代を超えて、いつかくるその時に必ず必要な形で再生されるようにと、人間の意識を超えて紡がれ続けた、純粋な祈り。

掃除は、人間の心が破壊に偏った時にこの世で再生される、叡智です♪

2020.3.14 日本
地球に暮らす、さやかより♪





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