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詩の日誌 「抽斗の貝殻のように」 2

「名づけられない軽い明るみ」

 自分の好きな、いや偏愛する本を「お迎えする」。
 本好きたちのSNSの投稿などで、その言い方を目にするようになったのはいつからだろう。
 購入する、入手するということばよりも、愛しい本の肌にそっとふれるような体温と、砂糖菓子の甘さをまとう話し方。

 愛読する作家の新刊や古書店でようやく見つけた詩集を「お迎え」したときの昂揚感。
 この一冊が自分の鞄のなかや机のうえにある。
そう思うだけで、翌朝の目覚めがひそかに嬉しくなるくらいの。

 ある一冊を愛してやまなかった人として思い浮かぶのは、詩人の大手拓次だ。
 彼は、フランスの19世紀の象徴主義の詩人、ボードレールの『悪の華』を枕元に置いて寝ていたという。
 憧れの詩集を「お迎え」したときの拓次の昂揚を軽く超えた熱狂ぶりは、日記や論考「私の象徴詩論」の「まえがき」からもうかがえる。

今日午前を休んで仏語を勉強す、
ボードレールの悪の華が到着したさうだ。あゝいふ泰西の名作が読めるやうになるかと思ふと胸がをどるやうにうれしい、あゝ早く詩が読みたい、
ボードレールの詩来る。うれし!!!

大手拓次 明治43年2月21日の日記より

私はここに、仏らんすの詩と初めて会つた其宵より、彼女を私の花嫁と呼ばう……私は花よめに夜毎日毎に抱かれるのである。やさしき抱擁よ。かんばしき肌の匂ひよ……私はお前のために、自分の生命を捧げやうと思ふ
(原文ママ)

大手拓次「私の象徴詩論」より

 病気がちで人づきあいが苦手だったという彼にはこの本は単なる本ではなく、ともに息を吸い、微笑み合い、肌の近くで柔らかく香る花として感じられたのだろう。

 わたしもここまでではないけれど、好きな詩集はつねに持ち歩き、ページにできるだけふれたい、と思うほうだ。
 でもそうした偏愛の対象が現在は流通しておらず、もう一冊を手にいれることはほぼ不可能であり、しかも外出時に汚したくはなく、複写する際の折り目もつけたくないくらいに繊細な本であるとき。
 けれど、この詩のことばのうえに、外のひかりや葉の影が映ったらとても素敵だろうな、持ち歩けたらどんなに楽しいだろう……とも、くり返し想像してしまう場合。

 どうすればいいのか。
 そう、一冊ぜんぶ、この手で写せばいい。

 わたしは昨年「お迎え」したそんな詩集を生まれてはじめて、一冊まるごと、手のひらサイズのノートに写した。
 原書は大切に家で読むだけにし、写したノートを持ち歩こう……。
そう決めた日から、眠りにつく前に一篇ずつ写していった。

 書写するあいだずっと、文字を間違えないことにのみ集中したため、作者が詩を書いたその瞬間を疑似体験するほどの余裕はなかった。

 だが、さらっと読み通すよりも、行と行の、あるいは一語と一語のつながりの意外さや、ことばの配列の美しさ、流れる音楽のふくらみにも気づけたとは思う。
 そして気づくたびに、新鮮な水を手ですくうような気持ちになった。

 何よりも、すくったばかりの澄んだ水を乾いた喉の奥に少しずつ流し込むように、一語一語をしっとりと味わうのが心地よかった。

 そうして数日後に完成した、一冊のノートの詩集。
 それを両手で持ったとき、何かに似ている気がした。

 まだ幼い頃、近所で生まれた子猫を見に行ったことがある。
 どきどきしながら距離を保って眺めていると、その家の人がわたしに近づき、目をひらいたばかりのうすい茶色の毛玉を注意深く、こちらの腕のなかへとのせてくれた。

 こわごわと抱っこしたときの柔らかさは想像していた。
 けれど、想像したよりも温かな丸みが軽いことに驚いた。

 ふわっと春風にさらわれてしまいそうな軽さのなかにちゃんと、心臓や胸やおなかが入っている。
 そう思うと震えるくらい、愛おしかった。

 本のタイトルから最後の一篇までを自分で写し、完成後に両の手のひらにのせた一冊は、あのときの軽さに似ていた。

 こんなに軽いのに、心臓も胸もおなかも、すべてあるんだ……と思った。
写し終え、電気を消した部屋の机のうえで、その可憐な生き物の周りだけが明るんでいた。

 拓次は、詩集という柔らかな花に似た生き物を「花嫁」と呼んだ。
わたしは、世界で一冊しかない、この拙い手書きの詩集を何と呼ぼう。

 まだ名づけられない軽い明るみを、わたしは今日も鞄に入れている。







詩の日誌「抽斗の貝殻のように」3

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