見出し画像

詩の日誌「抽斗の貝殻のように」8

 「ゆきの夜。はなの家」

 春の日に生まれる子が初めて目にするものはなんだろう。その子をおくるみで包む人は、もし頰にふれたなら日差しがふわりと香る、咲いたばかりの花のいろであってほしい、と願うだろうか。
 どんなに降りつもっても、遠い笑い声のように甘やかな。

 ある年の三月の終わり。予定日よりも二か月も早くわたしが生まれた夜。暖かな山のふもとの春にしてはめずらしく、吹ぶきと呼べるくらいの雪が降っていたそうだ。
 生まれてすぐに両親と離れて過ごしたそのふた月のあいだに、わたしは病室の窓から、雪のいろを見て、そのあとの花の影も見たはずだ。
 ゆき。それはわたしにとっては、姿を消してもなおわたしと一緒にいてくれる、初めて出来た友だちなのかもしれない。
 だからいまでも、いつまでも、雪が降るまえの空が好きだ。

 雪が降りだしそうな空は、雨の日とも曇りの日とも違った、静かな乳白色をしている。薄墨をかすかに含んだ甘い白は、地上の喧騒をどんどんと吸いあげ、そのかわりに、音もなくこぼれる雪のことばを返してくれる。

 降りはじめの雪ほどに、きれいなことばを持つものが、ほかにあるだろうか。

 小池昌代さんの「雪の祝福」という詩を読んでいて、あ、そのとおりだ、と思ったことがある。

くもりガラスばかりの部屋で、私は本を読んでいた。外があまりにも静かなので、立ち上がって玄関のドアを開けると、雪が降っていた。しばらくしてからまたドアを開けると、雪はさらに、降り積もっている。

雪には(見て)ということばがないので、自発的に見なければ気がつかないことだ、と思い、しかし、あの異常な静けさは雪のことばそのものだとも思った。

小池昌代「雪の祝福」(『もっとも官能的な部屋』所収)

 そうだ、「異常な静けさ」こそ、雪のことばなのだ。雪のことばに耳を澄ますことは、誰かにたやすく会いに行かず、ひとりの時間をたっぷりと受け止めることにも似ている。

 それはときには辛いことかもしれない。けれど、この静けさの通路をひとりで通過しないと、聞こえてこないささやきもあるはずだ。

 わたしは、雪の詩を読むのも書くのも好きなのだけれど、それは、ほんの一瞬でも、雪のことばが聞こえる気がするからだ。

 その声は、そらみみ、かもしれない。いや、ゆきのみみ、なのかもしれない。

 孤独を静かに温めながら寝息を立てはじめるひとの耳は、きっと、雪の耳。そんな耳に、頰に、そっと届く詩をいつか書けたら、と願う。

 そして、ある雪の日のあとに。
 もう満開、と聞き、近くの公園へ。大勢の花見客にまじり、池のまわりを歩いた。

 花の影がゆれる水面を眺めていると、むかし観たフランス映画『シベールの日曜日』(セルジュ・ブールギニョン監督)のあるシーンが自然と心に浮かぶ。

 この物語に登場するのは、戦争による傷が原因で記憶を失った、元空軍兵士のピエールと、父親から置き去りにされ、寄宿舎で暮らす少女シベール。
 それぞれに抱えるさびしさが引き合うように、ふたりは年の差をこえ、友情を深めてゆく。

 日曜日ごとに会う彼らが、池のそばを散歩するシーンがある。そこでシベールは、家々の影が映る水面を指さし、「ここがわたしたちの家よ」と、ピエールに優しく、しかしきっぱりと教える。

 その印象的なシーンを思い起こさせる水面をみつめながら、確かなものは、目の前の花だろうか、それとも花の影だろうか、とわたしは考えた。

 もしかすると、どちらもが不確かなものかもしれない。けれど、不確かなものを指さして、「ここがわたしたちの家よ」と言いきってしまえるのなら、それでもいい。

 実際には、そうきっぱりと言えずにただ佇むうちに、花も、影も、わたしたちの家のまぼろしも、いつのまにか見えなくなっている。

 あ、咲いた、と思ったらすぐに、ふれるまえに消えてしまう。それだけは、毎年、確かだ。

 消えてしまうからこそ、いま、みつめよう、近づこうとも思う。
 この幻影のくりかえしの愛おしさのなかに、わたしたちのほんとうの家はあるのかもしれない。





詩の日誌「抽斗の貝殻のように」9
「腕を伸ばす。そしてそれから。」