大手拓次 薔薇とともに彼方をめざす人

 人と話すのが苦手だった。幼稚園でも小学校でも一日中黙っていた。自分の外から聞こえてくる言葉はみなよそよそしかった。人と話せない。つまり言葉というものをうまく使えない自分はどこか頼りない存在だった。

 けれど目を閉じればいつでも、心の内側には、私が密かに感じていることを優しく包んでくれる温かい霧の平野が広がっていた。

 そんなある日、授業中に詩と呼ばれる言葉と出会った。
 そのとき、周りのおしゃべりとは違う声を聞いた気がした。たとえば谷川俊太郎の詩「かなしみ」。

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた

『二十億光年の孤独』より

 このたった六行を読んだとき不思議に感じた。どこか遠くで失くしたもののことを思ったまま、こんなふうに悲しいままでいてもいい、ということが。
 
 なぜ失くしたの。これからどうするの。周りの大人たちならそう畳みかけただろう。だがこの詩は尋ねなかった。答えを出さなくてもいいんだよ、と告げているような詩の言葉は、私のもとから簡単には消えていかなかった。
 人から離れた場所でそっと目を閉じたときに現れる霧の彼方から聞こえてくる声と同じだった。詩というものにふれた日、言葉という、よそよそしい何か、を初めて信じられる気がした。

 日常の言葉では表せない自分を詩の言葉によって見出すことは現実と和解する術だと、幼いながらも感じたのかもしれない。
 それ以来、日常の概念や常識に覆われた世界から、読む「私」の思い込みや囚われを解放し、未知の領域へと五感をより自由に広げてくれるものを、私は詩の「はじまり」の一つだと思っている。
 
 著名な詩人や文学者の言葉を借りて言えば、「詩は言語――意味と、意味の伝達――であり続けながら、言語の彼方にある何かである」(オクタビオ・パス『弓と竪琴』)、そして「詩的なというのは、感覚もしくは魂が日常の通有のありかたと区別される特殊な磁場にはいった状態を指す語」(菅野昭正『詩の現在 12冊の詩集』)なのだと。

 高校生になった私はそんな詩を求めて古書店をめぐり、現代詩人たちの名前を覚えた。その一方で、白秋と朔太郎の詩と、上田敏の訳詩集をくり返し読んだ。

 彼らの作品には、私が思う詩の一つの理想の姿である「形ありて形なく、色ありて現なく、匂あつて捉へるところなき声なき声」(北原白秋『海豹と雲』)が漂い、「言語の彼方にある何か」があった。

 そして上田敏の訳詩をきっかけに、フランス象徴詩に惹かれ始めたころ、現代詩文庫の『大手拓次詩集』を初めて手に取った。「拓次はフランス詩を花嫁と見なした」という、裏表紙の鮮烈な言葉に引き寄せられて。

 のちに原子朗氏の『大手拓次研究』のおかげで、じつは日本の古典にも精通するこの詩人がいかに独自の口語表現を豊かに発展させていったのかを知ることになるのだが、それまでに目にしていた詩史ではあまり言及されていない彼の詩を私は読んだことがなかった。
 だが本を開いてすぐに魅了された。とくに「薔薇」をめぐる詩の想像の膨らみとイメージの美しい造形に。

「地上のかげをふかめて、昏昏とねむる薔薇の脣。」
「翅
(つばさ)のおとを聴かんとして、水鏡(みづかがみ)する 喪心(さうしん)のあゆみゆく薔薇。」
「火のなかにたはむれる 真昼の靴をはいた 黒曜石の薔薇の花。」
「現
(うつつ)なるにほひのなかに 現ならぬ思ひをやどす 一輪のしづまりかへる薔薇の花。」
「かなしみをつみかさねて みうごきもできない 影と影とのむらがる 瞳色
(ひとみいろ)のばらのはな。」

「薔薇の散策」より


 拓次は、フランス象徴詩の美質を語ることを通して自身がめざす方向を確かめるような論考「私の象徴詩論」を書いているが、そのなかで重視している言葉の「手ざはりと、色と、匂ひと、音楽と、舞踊」の響き合いがここにはある。
 この薔薇は「花」という現実の事物ではなく、五感を解放し、自由に遊ばせることのできる、果てのない楽園だ。

 私が幼いころに眺めていた霧の野には誰もいないと思っていた。けれど、はるか彼方に、薔薇の道を歩く人がいたことをこの詩は教えてくれた。

 岩波文庫版『大手拓次詩集』の原子朗氏による解説を読めば、病気がちで人づきあいもほとんどせず、サラリーマンとして働いた詩人にとって「詩だけが彼のいのちだったこと、ガマのあぶらをしたたらせるようにして虚しい現実を堪えぬいた」ことがわかる。

 現実を堪えるために詩を書く、とはいっても、日々の出来事に対する憤りや悲哀などの感情をそのまま吐露してもそれは日記にしかならないだろうし、非日常の空想を平明な散文で述べれば、その塊はありふれた幻想譚になってしまうだろう。
 言葉自体が夢と現の狭間で震え、呼吸するような「手ざはりと、色と、匂ひと、音楽と、舞踊」、すなわち言葉自らの生命の魅力がそこになければ。

 拓次の夢と現を行き来する詩は、詩人自身が(あるいは読み手自身が)言葉との、そして世界との関係を新たに結び直すための、繊細に震える生きた命綱だ。

 霧の野を行く人が残した血痕のような薔薇の花びらは、詩集を開くたびにいまもみずみずしく香り、流れる。地上に生きる私に「言語の彼方」のまばゆさを見せるために。

※初出:『詩と思想』2021年3月号。noteに載せるにあたり、引用文と改行位置を修正。