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オモウマい店、未分化な荒さ、あるいは愛と欲望について

10月19日(火)

夕飯を食べながら、中京テレビ制作の「ヒューマングルメンタリー オモウマい店」を見ていた(途中から)。茂三郎という蕎麦屋のご主人が、取材に訪れたADの青年を勝手に弟子にする。そしてAD氏もそれを言われるがまま受け入れ、短期間だけ寝食をともにし、弟子として蕎麦打ち修行をする。そういう内容だった。

茂三郎氏のふるまいは表面上とても荒っぽいんだけど、心根はやさしい。前回の記事と紐付けるなら、誰にでもガンガン平気で話しかけるタイプ。「オモウマい店」はそういうタイプの人々を取材する番組だと言ってもいい。

粗野な態度は、ときに親しさの表現でもある。「オモウマい店」に登場する人々の荒っぽさは、相手を突き放すようなものではけっしてない。どのような荒っぽさかといえば、自他の区別がゆるい、ウチとソトの区別をあまりつけない、そういうたぐいの、いわば未分化な荒さである。役割が流動的。

「家族」というキーワードが頻出する。近寄ると、誰でも家族になってしまう。お客さんであろうと全員を身内にしてしまう。取材に来たAD氏も有無を言わさず弟子にしてしまう。とても乱暴で、とてもやさしい。

ウチの父方の祖母もそういう人だった。たまたま居合わせた通行人にも、まるで身内であるかのように話しかける。ちなみに母にもそんなところがある。その遺伝子を継ぐわたしには、異様なまでに分けて考える理性的な面と、ぜんぜん分けないガバガバな面が妙なバランスで同居している。つめたい面と、あたたかい面。親への反抗心(切り分けるつめたい面)と、親から素直に受け継いだ感性(未分化なあたたかい面)の同居なのだろうと自己分析している。自己分析はたいてい間違っていることにも留意しつつ。

それはさておき。ちょっと話が飛ぶけど、茂三郎氏のふるまいを見て小説家の小島信夫を思い出した。いま読んでいる、三浦清宏『運命の謎 小島信夫と私』(水声社)のこんなくだり。

 小島さんは毎晩小説の話をしながら、私にも小説を書けと、何度も勧めました。小島さんは、誰かと親しくなると、必ずといっていいくらい、小説を書くように勧めていたようです。小島さんは、小説という芸術のジャンルに絶対とも言える信頼を置いていました。彼にとっては、小説は単なる技芸や生活の手段などではなく、生活そのもの、人生そのもの、信仰の対象ですらありました。ちょっと西洋芸術的な言い方をすれば、小説の女神に魂を捧げて、毎日その言葉を書き留める人間といったところです。pp.86-87

親しくなると、必ずといっていいくらい、小説を書くように勧める。これは取材に来た人を問答無用で「弟子!」と呼び、蕎麦打ちをやらせる茂三郎氏と通底するのではないか……。小島信夫はさすがに問答無用ではないだろうけれど、底にある態度はよく似ている。茂三郎氏にとって蕎麦打ちは生活そのもの、人生そのものだろう。もしかすると、信仰の対象といってもよいのかもしれない。

親しい人に小説を書いてほしいと思う気持ちと、親しい人に蕎麦を打ってほしいと思う気持ちは、おなじ種類の混同だと思う。「俺のようになれ!」というのではない。だいじなのは、あくまで小説であり蕎麦打ちなのだ。茂三郎氏のブログには、「蕎麦打ちが100人いれば100通りの考え方と、100通りのうち方がある」と書かれていた。小説のありようもまさにそう。

ブログのことばを裏打ちするかのように、茂三郎氏は数日修行したAD氏の蕎麦を「俺超えちゃってるんじゃねえの?」と褒めていた。「俺」がだいじならこんなセリフは出てこない。可笑しくも心あたたまるシーンだった。

「小説を書け」という勧めは、言い換えれば「あなたの小説を読みたい」という願望の発露だろう。蕎麦打ちも同様に「あなたの打った蕎麦を食べたい」という、いってみれば愛の告白にも似ている。

小説家はきっと、単に小説を書く人ではない。みずから小説を書きながら、かつ他者にも小説を書いてほしいと願う想いこそが人を小説家たらしめるのかもしれない。蕎麦屋も単に蕎麦を打つだけが蕎麦屋ではない。音楽家も詩人も科学者も哲学者も、理想はそうかな。あらゆる職業にいえる、人間の一側面かと思う。ベースにあるのは、はみ出し合う気持ち。

わたしも誰かに何らかの影響を及ぼしたときは、激しく恐縮しつつもうれしくなる。「本を読みたくなった」とか。広い意味での欲望が広がってほしい気持ちはつねにある。自分もまた、書く人や撮る人、読む人、歌う人などからその欲望を受け取っている。

人々はすこしずつはみ出し合い、社会のなかでちいさな欲望の循環系を連ねて生きてゆくのだと思う。日々枯れないようにそれぞれの欲望を無意識にも、どこからか汲んでいる。自分の欲望と他者の欲望は、ぜんぜん区別がつかない。べつの角度から言えば、「する」と「される」はそう簡単に区別がつくもんじゃない。知らないあいだに当てられてしまう、なんてこともめずらしくないだろう。どちらかというと受動的に汲み上がってしまう。当てられる。うまく制御できない、それが欲望の欲望たるゆえんだとわたしは感じる。まるで家族のはじまりのように。




にゃん