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ブラジル先住民の椅子@東京都庭園美術館

ブラジル先住民の椅子を観に行きました。むしょうにブラジル先住民の椅子が観たい気分だったので。そういうとき、よくありますよね。あるあるネタです。あ~ブラジル先住民の椅子が観たくてむしゃくしゃするぜ~って胸をかきむしる瞬間。ひどい場合、奇声を発し血反吐を撒き散らして這いずり回るハメに。そうなる前に行きました。予防的措置です。自己管理です。

友人とふたり。目黒駅ちかくの東京都庭園美術館。9月17日(月)まで開催しています。おもしろい。「おもしろいなーおもしろいなー」とずっと思って、声にも出していた気がします。なにがどうおもしろいのか、あまりうまく言えない。「この感じ」としか言いようがない。写真でおわかりいただけるかわかりませんがこの感じです。

ああ、おもしろい……。この椅子の素敵な味と、庭園美術館(旧朝香宮邸)内の貴族的なマッチングがあいまっての相乗効果でおもしろのハーモニーが空間じゅうに鳴り響く。会場まるごとおもしろい。

「野生動物と想像力」という副題の展示。椅子として、造形を単純化したうえでの動物。そうして残ったこのかたち。椅子としての平らかさは欠かせない。座るための椅子なのだから。椅子という前提があってこそ、この造形の妙が生まれるのか。なんか撫でたくなる。しかしお触りは厳禁。つやつやと平らだった。

やはり平らだと座りたくもなる。そう、椅子なのだから。椅子は“座れ”と人心をそそのかし、惑わすもの。だけどむろんお座りも厳禁。部族のシャーマンが座る椅子だそうです。ああ座りたい。シャーマンになれば座れる。ブラジルの先住民に溶け込んで、かつシャーマニックな感受性を身につければ。あるいはカネを積んで買い取れば座れる。資本主義生まれ、資本主義育ち。

すべて座れるようにできている。あたりまえか。
なんとも平らかなたたずまいでした。
平らだ。「平ら」としか言えていません。
ことばも自ずと平坦になる。

顔がいい。上目遣いでこっちをみるジャガー。愛らしい。思わずムツゴロウさんのようにしゃぶりつきたくなる。しかしおしゃぶりも厳禁である。我慢だ。白い目の部分は貝殻を嵌めているそう。

さいごに制作工程の映像も見ることができます。ひとつの部族だけではなく、広くブラジル各地のさまざまな部族がこうした椅子をつくっている。こんかい展示されていたのは17の部族。メイナクを中心に、とあった。

横向きの猿。部族の伝統と、そこへあきらかに遊び心が加わっている。四角四面にはいかせない「伝統」。決まりきったものではない。部族ごとに差異があるし、作者ひとりひとりにも差異があっていいらしい。

自由な発想の余白であそぶ椅子たち。伝統は想像力を殺すものではない、汲めども尽きぬ創造性の源泉として型が受け継がれてゆく。受け継ぐ以上は、変化するものである。ただその場でまわるだけではないサイクルのかたちが置かれていた。伝統は過去ではない。いまに生きる。

うずくまる青年(友)越し。ブラジル先住民の椅子に囲まれながらうずくまる。あなたはなにを思うのか。いやブラジル先住民の椅子のほうこそ、思うところありげにわたしたちを見つめている。椅子がそこに居る感覚がする。おもしろい。椅子が居た。

キリがないほど写真を撮りました。撮影可(フラッシュ禁止)でしたが、監視係のひとの前だとなんだか緊張して撮りづらくなるふしぎ。へんに意識してしまう……。カラオケで歌っているとき顔をじっと見られると恥ずかしくて歌えなくなっちゃう感じに似ている。歌うとき、撮るときは自意識が薄まる。解放的にならなければ。自意識過剰になっちゃうとできない。いつもひとりで歌って、ひとりで撮っている。

遠目から見ると玩具みたい。

ふかふかのクッションでくつろげる空間。ここに座るともう動きたくなくなります。このクッションが家にあったらひきこもることまちがいなし。動けずやがて餓死することまちがいなし。家から出てきてほしくない人間には、こういうクッションをプレゼントしましょう。翌日から、二度と顔を見ることはなくなるでしょう。一生をクッションにうずもれて幸福に過ごすのです。罪悪感もなくひとを消せる。幸福な呪い。R.I.P.

わたしは一瞬だけ座って「あかん!」と感じ、すぐに脱出しました。あと5秒ほど遅かったら美術館のひとに追い出されるまで動けませんでした。危うくご迷惑をおかけするところだった。危うくポリス沙汰でした。セーフ。

友人の背中の写真を載せたので、自撮りも載せておきます。まるでわからないけれど、庭園美術館の敷地内。庭園です。茶室の戸にうつるじぶん。背中と等分くらいの加工。じぶんだけ逃げおおせるわけにはいきません。フェアプレイの精神をこころがけましょう。

バランスをとらないと気持ちが悪くなってしまう。返す刀でみずからの身も斬らなければ。そういう表現の仕方しかできないみたい。他人の悪口なんてそうそう言えたものではない。じぶんのこともバッサリいってしまうせいで。すべて跳ね返る。内省的。

日本庭園内の池です。旧朝香宮邸は広い。西洋庭園もあります。も~朝香宮っちは欲張りなんだからっ。ブラジル先住民の椅子鑑賞と、ひとんちの見学もできて一石二鳥です。アール・デコ様式を日本的にとりいれ1933年に竣工された重要文化財、旧朝香宮邸の見学。というと高級な感じがしますが、要するにひとんち見学です。

ひとんちはおもしろい。こんな異様に広くて品のいい家には住めない。変なプレッシャーが朝起きるたびにやばいと思う。どんな神経で住まえばよいやら皆目わからぬ……。6畳間で満足。こちとら「住所がある」ってだけでしあわせなのだ。戸籍があることにしあわせを感ずる。いちおう社会的に通用する名前があるってだけでありがたい。おめでたきひと。「日本人男性」と言えるだけですでに特権的です。権力者なのです。

西洋庭園。
芝生の手入れもたいへんそう。

これを書いているたったいま、こどもが外で「どこにもいかないで!!」と何度も叫んでいます。ことば選びが最高にせつなく、まるで夏の後姿を追うようです。どこにもいかないで。駄々をこねてもいってしまうね。もうすぐセプテンバー、夏はもう後姿。かな。

寺田マユミさんの展示が観たくて、神楽坂のかもめブックスに行きました。「Life in wonderland」というタイトル。こちらは9月2日(日)まで。

ちょうど店の奥、展示のところで店員さんが3人くらいわちゃわちゃしていて、入りづらい雰囲気。しかしその見えない規制線を天然ボケで突破し、絵を観ていると「蜂がいるので気をつけてください」とのこと。ひとまず退散。

「虫とか得意なほうですか?」「そんなに苦手ではないです」「わたしたちビビりなんでだめなんですよ~」みたいな会話をしながら蜂退治を眺めていました。がんばれーって感じで。仕事中といった空気感がなく、蜂という不安要素が闖入したおかげで「客と店員」みたいな煩わしい壁も薄くなったような。飛び回る蜂にわーわー言いながら。なんだか、かわいらしい光景でした。

震災のとき、余震がつづいて不安な日々に知らないひと同士でもフランクに接していたあの感じを思い出す。共通の不安がコミュニケーションをドライヴする。「天気の話」も共通の不安といえばそうかもしれない。雲行きが怪しくなりましたね。そうですね。

わたしはいつも不安だから、いつもとなりのひとと話がしたい。「知らないひと」って、不安です。隠し立てせずに自己を開示したほうが(わたしは)安心できる。ことばを発語する欲望のひとつには、「不快感の低減」があります。ひいては、死の忘却。どうやら痛みや死への感受性が強いらしい。

「虫は苦手ではない」と言ったせいか、蜂退治のアドバイスを求められました。気の利いたこたえはできなかった。蜂をとる網を買いに行く店員さん。展示スペースには入らず、店内をしばらくうろうろしていると、なんやかんやで追い出したらしい。蜂を追いやった男子をほめるアフタートークもいい感じです。蜂を退治できる系男子はモテます。かもめブックスは、ほんわかした店員さんが多いような印象。いいお店です。仕事が始まってしまい、さびしい気持ち。よそよそしくなる。蜂が入って授業が中断した教室を思い出す。もっと話そうよ、目前のあしたのことも。

展示を観る。
寺田マユミさんの線が好きです。
ふっと、つれだしてくれるような軽み。
香川県の民話をもとにしたイラスト。

いくつか本などの買い物をして出る。
夕飯に友とカレーを食べる。

豪雨と落雷があった夜。

雷の光と音がおもしろかった。瞬時に遠景の視野が白く覆われる。遅れてくる鈍い音。「おもしろいなー」と言いまくっていた。初めて雷を目撃したひとみたいに。まるでこどもだ。いいじゃないですか。雷、おもしろいじゃないですか。なんだっておもしろいじゃないですか!

にゃん