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日記654 前歩を忘れ後歩を思わない

異様に白い建物。

歩いているとき、背後をよくふりかえります。なんせ背後は目に見えません。想像の世界です。気にならずにいられない。いったいなにが起こっているのか。ふりむくと、なにかがいたりいなかったりあったりなかったり動いたり止まったりします。微妙ながら、想像した通りではない驚きがある。

しぶとく後ろにぜんぶ残っていてくれて、うれしい気もします。見ても見なくてもそこにある。なにもかもある。目を閉じてもある。自分はこの世界にしぶとく囲われている。騙されたって嘘ついたってぶっとばしたって。ストーカーどころの騒ぎではありません。なんてしつこいこの世だ。あるいは自分がしつこいのか。ふりむけばそこに知覚と意識が生じる。きょうもわたしが発生する。

目に見える前方よりも、目に見えない後方に意識がひっぱられる。こういうのって思考の癖なのかなーと思います。目の前にある具体よりも裏っかわの抽象に興味を惹かれます。じっさい具体的な考えをめぐらせることが苦手な感覚はあります。うわの空というか……。心ここにアラブ。時すでにお寿司。

歩行とは、存在と不在を撹拌する運動です。かき混ぜる。前方の存在を通り過ぎて、後方へ見えなくする。その「ある」と「ない」の前後がぐるぐると混ざり合う。知覚と想像をめぐりわたる運動と言い換えてもいい。前は知覚。後ろは想像。背中側は目を閉じて見る。そこはもう人生の向こう側。とかって、いちいちなんだかむずかしく考えすぎです。でも自分にはそう思えて仕方がない。そう言いたくて仕方がない。些細なことを考えすぎとも思う。

信がゆらぐからふりかえる。ほんとうに背後にも世界があるのか。ふりむいてもわたしは消えないのか。いや、わたしはどこに生じているのか。すべてが地続きなのか。過ぎた時間と現在との接続部を見たい。どこかに断絶があるのか。「地続き」というほどなめらかに時間は流れていないと思う。距離と距離を埋めているものはなんだ。視界は飛び飛びだ。

なにごとも確認がたいせつです。全身をつかって見る。見る。見る。「歩き回る」という日常のリアリスティックな運動の中にもフィクショナルな要素は入り混じっています。前方と後方の区別は言い換えれば、知覚と想像の区別です。なにをしようが存在と不在がぴったりとこびりついて、とれてくれない。いまも。

歩いていると思いが浮かびます。種田山頭火は、歩く俳人でした。放浪癖といえばそうかもしれない。自由律俳句は歩行の知覚そのもののようだった。彼は「前歩を忘れ後歩を思わない」とみずからに言い聞かせ、単純に歩く。でもそれは、とてもむずかしかった。歩くだけのことなのに。前歩を忘れられない。後歩を思わずにはいられない。ほんとうは現在だけがあれば十分なのに。かぶりをふってまた歩く。一歩即一切の徒歩禅を行う。山頭火は〈私〉を消そうとひたすら歩き、それでもつきまとう〈私〉の影を詠んでいた俳人だと思う。

 禅門に「歩々到着」という言葉がある。それは一歩一歩がそのまま到着であり、一歩は一歩の脱落であることを意味する。一寸坐れば一寸の仏という語句とも相通ずるものがあるようである。
 私は歩いた、歩きつづけた、歩きたかったから、いや歩かなければならなかったから、いやいや歩かずにはいられなかったから、歩いたのである、歩きつづけているのである。きのうも歩いた、きょうも歩いた、あすも歩かなければならない、あさってもまた。――
木の芽草の芽歩きつづける
はてもない旅のつくつくぼうし
けふはけふの道のたんぽぽさいた
     □
どうしようもないワタシが歩いてをる

しなびた柿がキンタマみたいだなーと思って撮りました。キンタマーニ高原です。もはやキンタマそのものといっても過言ではない。これは冬のキンタマだ。でもほんとうにキンタマだったら恐ろしくて写真なんか撮っていられないだろう。むしろめずらしいから撮るか……。きっと人道に反する光景も撮りたくなる。カメラには、そんな魔力がある。これは柿です。たぶん。

土曜日のお昼のテレビ番組で生野陽子アナウンサーが「抹茶抹茶になっちゃった~」と何気なく話していた場面をなぜかいま思い出しました。なんてかわいらしい日本語なんだ!と感じてメモをとろうとしたら、スマホも紙もペンもすぐ手に取れる場所になく、めんどくさいからいいやと流したフレーズがたったいま降りてきた。流れていなかったようだ。

人間の記憶のふしぎに思いを馳せます。なんで思い出したんだ。紅茶にマドレーヌを浸して食ったわけでもないのに。べつに忘れてもいいのに。永久に思い出さなくとも困らないのに。すこしうれしいけど。「まっちゃまっちゃになっちゃった~」と平仮名でかわいく言えるおとなになりたい。どうやら知らぬ間に生野アナから、まっちゃまっちゃにされてしまったようです。バトンを渡されたので、わたしもこれから誰かをまっちゃまっちゃにしないといけない。



にゃん