限りなくはみ出し合うわたしたち

※前回のつづき的な記事。論理としてのまとまりはない(いつもそうだけど)。ひと筆書き。



たぶん、むかしは街全体が公園みたいにだぶついていたのだろう。人々も路上でだぶついていた。テレビにうつる、インドの雑然とした街なかをぼーっと眺めながら思った。ぜんぶが公園みたいで、きっと数十年前の東京もこのようにぐちゃっとしていたにちがいない。わたしの祖父母世代が若かったころ。

父方の祖母は、知らない人でも平気で話しかける馴れ馴れしいおばあちゃんだった。とくにちいさなこどもを連れたお母さんを見つけると、迷いなく突撃する。「あらかわいい」「いくつ?」「手のかかる時期ねえ」などと、いつもおなじ話をしていた。若いお母さんたちはたいてい、それに対して戸惑いがちに応じる。

誰にでも平気で話しかけるメンタリティは、街全体が公園のような時代に育まれたものなのかもしれない。いちいち格式張って「こういう者です」と名乗らなくてもいい。前提に個人や組織を立てることなく、居合わせただけでぬるぬる話が進む。時間も気にしない。話しかける理由は「こどもかわいい」ってだけで、あとはどうでもいい。相手が誰でも、自分が誰でも見境ない。公園的な精神性。ゲリラ的ともいえる。遊撃的。もしくは通り魔的。

じっさい、「誰でもよかった」は通り魔の常套句だ。前回の記事を書いたときも脳裏をよぎったが、触れなかった。「誰でもいい」には両面あるのだと思う。公共心の裏表。では、公共心とはなんだろう。あえて一言で、ゆるく定義するなら「はみ出す気持ち」ではないかな。人々がすこしずつはみ出し合いながら公共圏は成り立つ。

わたしも、ときどき知らない人に話しかけたくなる。こないだ電車内でジャン・ジュネの『花のノートルダム』(光文社古典新訳文庫)を読んでいるおばあさんがいて、その本を手にしたきっかけについて話を聞きたかった。あるいは、これも電車でトゲだらけの革ジャンを着たモヒカンの男性がいて「イケてます」と伝えたかった。かっこいいタトゥーの人にも話しかけたくなる。でも、できない。

長距離バスで隣り合った人だと、わりとできる。あいさつ程度でも話しかけておくと、カドが立たないから。緊張がやわらぐ。安心して眠れる。これには自己防衛的な意味もある。自分を守るためならできるのか。あと、体が固定されていると話しかけやすい。

前回も書いたように、問題は目的なんではないか。「~のため」という大義名分があると行動できるが、ないとできない。目当てのぴったりした行いならできる。対して「はみ出し」とは、知らん人のファッションをむやみに褒めて立ち去るみたいな不合理。まるで天使が通りすぎるような仕方で……。

ふだん抑圧しているせいか、はみ出したい欲は強い。ブログを書きつづけるのも、はみ出し行為のひとつだろう。やり場のない公共心の発露。さしたる理由もなく通り魔的に見知らぬ人を褒めまくりたい変な願望もある(内心では実行している)。あるいは赤の他人の惚気話をえんえん聞いて、ふたりが末永く幸せであるように応援したい。ランダムで知らん人と通話できるアプリにハマっていたとき、そういうことをしていた。親切心は特別なものではない。

というより、惚気の傾聴は自分の興味にかなう。恋愛の話は煎じ詰めれば、アイデンティティの話に帰着する。それぞれの同一性のありようと、そのゆらぎ。みたいな観点からおもしろく聞ける。「狭い話はいとおしい」という感覚もある。人と人は、ぽつんとした「狭さ」のなかでしか出会えない。「寂しさ」ともいえる。色恋沙汰はとてもぽつんとしている。第三者の立場から俯瞰すれば「ありがち」であっても、そこにはかならず、体を通した固有の狭い狭い感情が息づく。その裏には、固有の家族の物語が隠されている。人間が再生産される素の感情を知りたい。

河原でたまたま隣り合っている石。そういうものを想像する。人間関係は、それ以上のものではない。血縁者でさえ。冷たい、極端な見方かもしれない。わたしたちは誰も知らない理由によってつながれる。不確かで、雨が降ればあっけなく流されてしまうような。流れてもふたたび、似たような場所にとどまるときもある。かたちが近ければその確率は高まる。

隣り合う石を見て、「なぜこのふたつは隣り合っているのか?」と問うても仕方がない。でも人間は、そこに意味を読み込んでしまう。知らずしらずに、それと似たことを日常的にしている。自分もふくめ、とてもふしぎな動物だと思う。

きっと目的のいかんに関わらず、はみ出しているのだろう。書いているうち、考えがはみ出してきた。ぴったりした行動なんかできやしない。つねにすでに「それ以上」が生じるようにできている。帳尻は合わない。ヒトとして生きるかぎり。公共性を考えることはすなわち、ヒトの限りない「はみ出す気持ち」について考えることだとわたしは思う。合わない帳尻を思うこと。

すべてが自己完結で済むなら、「公共」なんか必要ない。ただ自分の役にだけ終始すればいい。でもかなしいかな、たのしいかな、あたしらはひとりじゃ済まない始末になってる。どうしたって、狂おしいほど、ヒトは複数として、咳をしても「それ以上」としてある。




にゃん