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「詩×船」ヒライス島の1000の詩集@北千住BUoY

ドアノブがちょっとはっちゃけている場所へ行きました。どこからがノブでどこからがドアなのでしょう。右の幅が狭いほうについている四角形のちょんとした木材がノブらしいノブだなーと思って、わたしは始め、狭いほうを開けようとしてしまいました。ほら、「OPEN」って札もついてる。これは冗談じゃなくて、本気でやったことです。

自分はドアのことをノブの形状で判別しているらしい。ドアを開けるのではなく、まずノブを開けていたのだ。現にノブがこの程度でも撹乱されると、ドアであるとは認めなかった。もちろん開いたのは、左側です。ノブの認識はしづらいが、確かにこちらのほうがドアっぽさがある。ノブを見てドアを見ず。我ながらあたまが固かった……。既存のドアノブの思い込みにとらわれていました。ハッとした。目が覚めたよ。ドアノブは、もっとずっと自由なんだ。

そんな、手始めにドアノブの既成概念を破壊してくださるスペースが北千住BUoYです。師走、はじめの土日に「詩×船」ヒライス島の1000の詩集という企画が開催されていました。出版社や書店から集められた詩集が1000冊、船をモチーフとした空間に並べられる。

サイトがおしゃれでおもしろい。

ずらずら。壮観。

12月2日(日)。北千住まで。行こうか、どうしようか朝から迷い果てていて、午前中は図書館で過ごし、その足でそのまま向かおうか否か迷いながら結局は家に帰り、掃除や炊事をし、冬の陽の短さに気分が追いやられ「もう暗くなるしやめよっかなー」と思いながら「少し散歩してみよう」と、とりあえずもういちど外出して徒歩で駅のあたりへと向かうなか「行ってもいいのかなあ」などとぼんやり疑問を感じ、コンビニでコーヒーを買ってしばらく飲み歩き、ゆらゆら意志薄弱に改札をくぐった時点でようやく「ああこりゃ行こうとしているらしい」と知った。そんな日。

なにを意志と呼ぶのかわからない。どう思おうが身体を持っていけば「自分の意志」になるのだろう。そう解釈されるし、そう解釈できる。たとえば行きたくない場所だとしても、行ってしまえば結果は行きたかったことになる(とされる)。BUoYへ向かうことは迷ったが、おそらく始めから行きたかった。帰るころには「めっちゃ素直に行った」と思っていた。ドアノブの概念も破壊できたし、とても新鮮な雰囲気があじわえてよかったです。

ローレン・アイズリーの『星投げびと』(工作舎)が置いてあって、「これ何年か前に図書館で借りてさいごまで読めずに返却したなー」と記憶をたぐりよせるように手に取ると、棚が揺れてビビる。ウップス!と内心でつぶやく。ぶらぶらとハンモックのように吊られている棚だった。入ったときに気づいていたけれど、注意が逸れると一瞬で忘れる。以後、慎重になる。そうっと手に取り、そうっと置く。

人が揺れやすいものと接するしぐさは、静かでゆっくりしている。「揺れやすい」とわかれば手つきが変わる。揺れやすい棚に分厚く重たい本も並べられていて、乗っているものの重みを知るとさらに慎重になる。少しだけ筋肉を緊張させて置きなおす。揺れやすいものの上にある、重みと軽みを確かめながら、本を手にする。

なんとなく、詩人がことばを手にするときのしぐさにも似ている気がする。揺れやすい平面の上に、一語一語を置き放したり、取り去ったり。放したあとはもう、詩行の揺れるがままにしておく。棚がかすかに揺れていると、誰かがここにある本を手にしたのだとわかる。わたしも本を置き直し、揺れるがままにしてそこを立ち去る。この「揺れ」は、置かれたことばがふたたび読まれるかぎり、静止に至ることはない。

9月に行った大阪の葉ね文庫という本屋さん。そこから届いた本も陳列されていました。値札に印刷の文字。それと手書きの文字があり「ああこの筆跡」と思う。たぶん記憶している。葉ね文庫の店主、池上さんが書いたのかなーと。勘違いで、ぜんぜん関係ない人の筆跡だったら恥ずかしいけれど、それはそれでいい塩梅。このくらいのお気楽な勘違いなら許されるだろうから、どっちでもいい。むしろ勘違いをしたい。大阪の本屋さんの筆跡に、東京でまた。

詩人の文月悠光さんが終日、在廊されていて「せっかく」みたいな貧乏性で文月さんのエッセイ集『臆病な詩人、街へ出る。』(立東舎)をご本人から購入する。それと土曜社のマヤコフスキー叢書を2冊。あまり買わないように気をつけているけれど、どれも気になっていたから、もうせっかくだ。叢書は、買い始めるとなんとなくすべてをそろえて悦に入りたくなってしまう。全15巻。そろうかどうか……。

文月さんからサインをいただけて、ありがたかったです。たぶんお決まりで、わたしの名前も尋ねられたけれど「え、恥ずかしい」みたいなことを言ってお断りしてしまう。これもたぶんお決まりで、詩文を添えてくださる。それを見て、マヤコフスキー叢書の『ぼくは愛する』を思い出す。本の裏にあった研究者の評。

どこをとっても心臓ばかり、
いたるところで汽笛を鳴らす
隅から隅まで光にあふれている。
この作品の主人公、《どこをとっても心臓ばかり》の男のイメージとともに、作品ぜんたいを貫通しているのは太陽のイメージである。
――Z・パペールヌイ(研究者)

『ぼくは愛する』。これは、迷ったすえ買わずにおいた。買ったのは『とてもいい!』と『一五〇〇〇〇〇〇〇』の二冊です。文月さんが書いてくださったことばにマヤコフスキーからの連想があったのかはわからないけれど、あったとしたらすごくておもしろいのでこれも勘違いしておこう。害のない能天気な勘違いならいくらでもしよう。

「さよなら」を見つけたふたりは
この街の心臓をかたちづくる。

とその場で書いてくださる。マヤコフスキーの「心臓」のイメージは、もっと激しいものかもしれない。この二行からは夜の空気が漂っています。なんとなく。暗い場所。からっぽの心臓が知らないところで静かに脈を打って、人間はめぐる。「さよなら」は移動の合図になる。これを言い交わし、人と人は離れゆく。心臓は、循環系の中枢としてある。「さよなら」からこの街の心臓が輪郭を描き、拍動を始める。見つけられた「さよなら」は拍動する心臓の原因であり、また結果でもある。夜の街はいくつもの「さよなら」によって静まり、やがて朝へと向かう。地球の円に従って。さよなら。じゃあ、またね。会っても会えなくても、この街の心臓はかたちとなって、動き出すだろう。「さよなら」から心臓という循環系へ。たった2行だって矛盾を明晰に表現できることばが、詩なのだと思います。

北千住駅からBUoYまでの道程で発見したド根性キノコ。「アスファルトに咲く花」より、「ベニヤ板に生えるキノコ」派です。涙の数だけ強くなれる成分が花と比較して約20倍配合されています。

twitterに「本は買っても著者のもので私のものにはなり得ないから、大切にする」と書きました。サインに自分の名前を入れてもらわなかったことについての言い訳です。気恥ずかしさが第一ですが、人の著書に自分の名前を置くことにはやはりためらいがあります。ご厚意を否定するのではなく、ごく個人的な、しちめんどくさい倫理観です。

いっぽうで、本に書かれていることはすべてわたしの記憶にもなります。読めば浮かぶ想起の中の親しみと、よそよそしい語彙との運動のあいだでわたしが揺れる。二度と至りつけない著者の生きた時間がある。そしてそれが書かれた時間と、読むわたしの時間がおなじ「いま」となる。そこは遠い遠い現在時で、指先はさらに遠きを目指しページをめくる。わたしのいない時間に、わたしはいたいから本を読む。文字を通過しながら一個の位置を揺れ定める。

詩×船@北千住BUoYには、よくわからないドアノブと、揺れやすいものに触れる人のしぐさがありました。石原さとみ風の締め。Find my Tokyo。20時半過ぎごろ、BUoYをあとにする。

帰路に撮影。絶妙な場所に置かれたキューピーを何枚も撮っていたら、若者の集団から「酔っぱらってる?」と話しかけられる。残念ながら完全にしらふでした。



にゃん